最近は、アドラー心理学サロンさんのツイートをよく見てる。
共感する言葉が多くておもしろい。
 
アドラー心理学サロン
https://twitter.com/adler_salon/
 
自分はどうも、人は人、自分は自分というような考え方がだんだんと強まってるようだ。
若い頃であれば付き合いで時間を潰しても大して気にならなかったけれども、人生も半場を過ぎて、だんだんと終わりを意識する年になってきたせいか、若干、焦りが出てきてるのである。自分の課題にもっと集中しなければ…。
 
巷では、年を取ったら静かに余生を過ごすのがよいという考え方もあるけど、それとは逆に年を取ったからこそ、残り時間が少ないからこそ、本気で善く生き切ろうと活動的になるということもありそうではある。
 
この辺りは人それぞれなんだろうけれども、自分の場合はまだ諦観には至っておらず、自分の人生を生きたいという願望はそれなりに強いようである。〈了〉



*コメント欄のコピペ
(yahoo!ブログからの移行時に、最新20コメより前のコメは移行されなかったので、その部分も含めてコピペ)


コメント(130)
顔アイコン自由さん

人は人、自分は自分 いいですね!
自分の生き方は意識であれ、無意識であれ、自分なのですから、
自分の心の表れ、自分の責任だと思います。
それほどの焦りはありませんが、自分の人生を生きたいという願望はそれなりに強いですね。
2018/9/27(木) 午前 9:03[ shalom ]返信する

顔アイコンshalomさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
本当に、自分の人生を生きたいものですね。
と書きつつ、なんとなしに、我が人生に悔いなしを思い出してしまいました。いつかはこんな心境になりたいものです。

・石原裕次郎 我が人生に悔いなし
https://www.youtube.com/watch?v=ufCEPrvMCf0
2018/9/27(木) 午後 9:09[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> shalomさん

>自分の責任だと思います

責任を一切取ったことのないシャローム
2018/9/28(金) 午前 1:15st5402jp返信する

顔アイコン> st5402jpさん おはようございます。
【口語訳】創世記
4:13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
4:14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
4:15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。

私はカインです。負いきれない罰、責任、重荷を負っています。主なる神はわたしにも一つのしるしをつけてくださいました。
stさんあなたにもです。すべての人にです。
このしるしは主なる神の恵みです。
2018/9/28(金) 午前 6:29[ shalom ]返信する

顔アイコン> shalomさん

カインは、聖書のそこに至って、ようやく、わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう・・と、弱みを神の前にさらけ出しています。それゆえ、神はカインを殺さず、むしろ守ろうとしています。

>私はカインです。負いきれない罰、責任、重荷を負っています

では、あなたがカインのように、罪を犯したことを、あなたのブログの記事で明らかにしてください。あなたの罪は、あなたが犯したのだから、あなたのものです。
2018/9/28(金) 午前 8:50st5402jp返信する

顔アイコン負いきれない?

あなたの行いです。正直に告白するだけです。キリスト者なら出来ることです。
あなたは、悲劇の主人公ではありません。当然のことをしてください。

>stさんあなたにもです。すべての人にです。

私も罪人ですが、あなたに、あなたと同様だと言われる筋合いはありません。私は神の前で、祈りにおいて、故意に飾ったり、隠し事をしたことはありません。私は、神を恐れるからです。

あなたの罪と偽善に、私や、全ての人を、巻き込まないでください。
2018/9/28(金) 午前 8:50st5402jp返信する

顔アイコン念のため

>人は人、自分は自分 いいですね!

あなたは、好きなように信じたいようですが、信仰においては、キリストは、ただ一人ですから、あなたが前に言っていた、信仰は人それぞれ、というのは、成り立ちません。

人それぞれ、というのは、キリストに出会う経緯や、導かれ方や、使命のこと、つまり、人間についてのことです。キリストが、人によって変わるわけではありません。
2018/9/28(金) 午前 9:02st5402jp返信する

顔アイコン> st5402jpさん
自由さんがコメント欄に自由にコメントできるようにされたのに、つい先ほどコメント書いて投稿したコメントが表示されませんね。どこかに行ってしまったようです。
この記事に自由さんが紹介された
アドラー心理学サロン
https://twitter.com/adler_salon/
で「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」に登場する哲人に青年が自分の主張をぶつけるように、stさんの主張をぶつけてみたらどうですか。

聖書の読み方は人それぞれ自由ですね。
その自由がなければ教条化されてしまいます。
だから神はアダムとエバに食べるのも食べないのも自由ですよと神に対する信仰のあかしとして自由意思を与えられたのです。

聖書は人の言葉で文字で書かれていますが、神の言葉です。
しかし、神の言葉は霊であり、いのちです。
【口語訳】新約・二コリ
3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
shalom!
2018/9/28(金) 午後 1:03[ shalom ]返信する

顔アイコン> shalomさん

>聖書の読み方は人それぞれ自由ですね。
>その自由がなければ教条化されてしまいます。

でたらめ言わないように。聖書の読み方が人によって違う、というのは、人それぞれ自由ということではありません。
人が神の意志を厳密には知らないから違ってくるだけです。
したがって、その自由が、あなたやカルトのように勝手になって、あなたやカルトのように教条化されることがあるのです。
2018/9/28(金) 午後 7:42st5402jp返信する

顔アイコン>
だから神はアダムとエバに食べるのも食べないのも自由ですよと神に対する信仰のあかしとして自由意思を与えられたのです。


これは、聖書の読み方つまり解釈と、神が人に与えられた自由意志つまり選択の自由とを、混同しています。聖書は、自由に意味を選択してよい書物ではありません。あなたは、気安いですね・・。
2018/9/28(金) 午後 7:42st5402jp返信する

顔アイコン>聖書は人の言葉で文字で書かれていますが、神の言葉です。
>しかし、神の言葉は霊であり、いのちです。

自由と言いながら、神の言葉という。そして、「霊」という言葉を付けて、神秘的に見せかける。この恣意こそが、霊に仕えるといって、文字を悪用することになります。
でたらめ言わないように。
2018/9/28(金) 午後 7:42st5402jp返信する

顔アイコンこのように、シャロームshalomは、理路がまるで成り立っていません。口から出まかせを、それらしく見せかけて、言ってきます。だから、真に受けて鵜呑みにしないことが大切です。

これは、訂正不能の教条に浸って、自分を見つめることの出来なくなった人の定めのような成り行きなのでしょう。
2018/9/28(金) 午後 7:56st5402jp返信する

顔アイコンここは、記事にします。
2018/9/28(金) 午後 7:57st5402jp返信する

顔アイコン> st5402jpさん

ご自由に。
2018/9/28(金) 午後 8:54[ shalom ]返信する

顔アイコンおはようございます。
お二人のコメント読ませていただきました。
人それぞれで済むこと、済まないこと…自分なりに考えてみましたが、正直、考えは中々まとまらない。自分にとってこれはけっこうな難題のようです。
2018/9/29(土) 午前 7:33[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん おはようございます
人は神が存在しているのか、存在していないのかすら証明できないのですから、人が有限で、相対的で、死すべき人としての自分を足場にしていては「正直、考えは中々まとまらない。自分にとってこれはけっこうな難題」ですね。それは私にとっても同じです。この難題に誠実に向き合い、迷い、葛藤しながら生きていくことが大事だと思います。
ありがとうございました。
2018/9/29(土) 午前 9:45[ shalom ]返信する

顔アイコンありがとうございます。そう言っていただけると、気持ちが安らぎます。
2018/9/29(土) 午前 10:49[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> shalomさん

あなたは、「人が有限で、相対的」を認めながら、なぜ、十字架の贖いによって罪は赦されるから気にしなくていい、などと言うのでしょう。また、そう言ったことを、なぜ、ここに書かず、体のいいことばかり書いてくるのでしょう。
2018/9/30(日) 午前 2:30st5402jp返信する

顔アイコンそして、なぜ、あなたは、訂正不能なのでしょう。また、迷い、葛藤しながら、生きていくことが大事だなどと書いていますが、なぜ、あなたは、誠実に向き合い、などと言いながら、おびただしいコメントを、日々、自分で削除しておきながら、神に任せるのが一番、などと白々しい嘘を言ったのでしょう。
2018/9/30(日) 午前 2:36st5402jp返信する

顔アイコン> shalomさん

息を吐くように嘘を吐く、というのは、あなたのこと。
2018/9/30(日) 午前 2:40st5402jp返信する

顔アイコン私の「いのちのパン?」に
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
その一部を書いています。
2018/9/30(日) 午前 2:46st5402jp返信する

顔アイコンstさんと、shalomさんのやり取りなどを見ていて思ったのだけど、
shalomさんは、リベラル寄りなんでしょうかね。
聖書に対する向き合い方とか、なんとなくそんな気がしたのだけど…ちがうかな。
2018/9/30(日) 午後 5:10[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンコメ欄をざっと見直してみたけど、shalomさんは挨拶的なことは書いても、嫌味とか、悪口とかは書いてないみたいですね。
でもstさんからしたら突っ込みどころ満載のようだし、うーん、この辺りはなかなか難しい…。
2018/9/30(日) 午後 9:07[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん

シャロム氏は、自由というより放任だと思います。自分が肯定されれば、人のことはどうでもいいんじゃないかと思います。だから世辞が多い。批判するだけの理路を組み立てられないからだと思います。言葉の使い方がいい加減で、最近覚えた言葉というのを使いたがるようです。今は、未分化とか。彼は不分化でしょうけど。以前、アンビバレントという言葉を覚えたら、早速言ったのは、神はアンビバレントなお方だから・・と。神は葛藤や病因を抱えて悩むのか、って話です。失礼しました。
2018/10/1(月) 午前 3:20st5402jp返信する

顔アイコン> 自由さん おはようございます
リベラルと言う言葉の意味を確かめてみました。

1 政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま。本来は個人の自由を重んじる思想全般の意。
2 因習などにとらわれないさま。

ということであれば、そうかもしれませんね。
自分はリベラルだとあんまり意識していることはありません。

沖縄県知事選 台風渦中の選挙で心配しましたが、よかったですね!苦難の歩みは続きますが…
2018/10/1(月) 午前 6:45[ shalom ]返信する

顔アイコン>stさん

自由というより放任…実を言えば、これは我が身にも思い当たるところがあります。気をつけねば。
なんというか、人の心は変えられないということを痛感することが多かったせいか、その方向に行ってしまうんですよね。
2018/10/1(月) 午前 7:04[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>shalomさん

この辺りについてはどうでしょう。

・キリスト教のリベラル派とは?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1295290097
・自由主義神学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%A5%9E%E5%AD%A6
2018/10/1(月) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン私が、シャロムを放任と言ったのは、間違っていると思うけど批判しない、あるいは、する勇気がない、ということではなく、
シャロムは、自分が正しいということについて無条件に神の啓示?を根拠していて、そこで無思考であるということで、人それぞれと言って、他者のことなどどうでもいい、というのは、やさしくもなく弱くもなく、しばしば嘲笑いを感じるほどに、バカにしているということです。つまり、敬虔の反対、信仰上あってはならない傲慢に当たります。自由でもなくリベラルでもなく、何も自覚できないまま、考えないまま、ふんぞり返っていられる、ということです。
2018/10/1(月) 午前 10:12st5402jp返信する

顔アイコンシャローム氏が、他者に何の影響も与えないのであれば、彼が自己中心に思い込み信仰であっても、批判する必要はないのです。
シャロームが変なことを信じているから批判するのではなく、彼が変なことを言って人に影響を与えようとしているから批判しています。
2018/10/1(月) 午前 10:19st5402jp返信する

顔アイコン> 自由さん

キリスト教のリベラル派とは?
自由主義神学についてを読んでみますと、
どちらかといえばリベラルではないと思います。また自由主義神学の立場でもないと思います。だからと言って、聖書の一言一句が逐語霊感説をとるものでもありません。
聖書は決して、歴史的、科学的なことを証ししているのではなく、神と被造物である人間と自然との関係、交わりの在り方を神によって神の民とされたイスラエルの歴史を通して証しされた信仰告白としての記録の言葉であると考えています。超越的な生ける神がイエスをマリヤによって受肉された神の子として、この世に遣わされ、神ご自身を証しされたように、有限で、相対的で死すべき人の知性や理性、経験によっては理解することができないことが書かれているとしても、聖書の言葉によってご自身の証しとしての啓示を記録として、神に対する信仰の基盤として私たちに与えられたことを信じています。
またその言葉が神に対する信仰告白の言葉であれば、信仰告白へ導き助けられた聖霊の助けなしには神の言葉として理解することも困難であると思います。それが自由主義神学の立場をとらない理由だと考えます
2018/10/1(月) 午前 11:47[ shalom ]返信する

顔アイコンしかし、聖書がイスラエルの歴史における記録である以上、またすべての原書が残存しているわけでもありませので、批評研究の対象とされることを否定するべきではありませんが、文言として矛盾し、理解できないことがあるとしても、神の言葉であることを否定するものではないとも考えています。
聖書の言葉は生きていて力があるという聖書の言葉、証言は決して虚しい言葉ではありません。私の60余年の信仰の歩みによって私に与えられた確信です。
2018/10/1(月) 午前 11:48[ shalom ]返信する

顔アイコン>
聖書の一言一句が逐語霊感説をとるものでもありません。
聖書は決して、歴史的、科学的なことを証ししているのではなく、神と被造物である人間と自然との関係、交わりの在り方を神によって神の民とされたイスラエルの歴史を通して証しされた信仰告白としての記録の言葉であると考えています。


科学的でないのは言わなくてもいいことです。その後、神の民であるイスラエルの問題点を書いていません。それが旧約聖書の核心であり、キリストの登場の必然性であります。
2018/10/1(月) 午後 1:39st5402jp返信する

顔アイコン>
超越的な生ける神がイエスをマリヤによって受肉された神の子として、この世に遣わされ、神ご自身を証しされたように、有限で、相対的で死すべき人の知性や理性、経験によっては理解することができないことが書かれているとしても、聖書の言葉によってご自身の証しとしての啓示を記録として、神に対する信仰の基盤として私たちに与えられたことを信じています。


神、受肉、神の子、証、という超常、まるのままという説明です。極めつけに、知性や理性や経験で理解できない、そして、シャロームの自己正当化の便利ツールであるところの、啓示を持ち出しています。彼は正当化したいのは、神ではなく、彼自身なのです。
2018/10/1(月) 午後 1:39st5402jp返信する

顔アイコン>
またその言葉が神に対する信仰告白の言葉であれば、信仰告白へ導き助けられた聖霊の助けなしには神の言葉として理解することも困難であると思います。それが自由主義神学の立場をとらない理由だと考えます


そして、もう一つの、シャローム教の根拠として、彼がでっち上げたのは、聖霊です。前から、私が言ってきたことです。その助けなしには理解できない、つまり、自分は聖霊の助けによって理解できるというわけです。人間を不自由に縛り付けるシャローム自己中心の神理解の立場が明らかになっています。
2018/10/1(月) 午後 1:40st5402jp返信する

顔アイコン>
聖書がイスラエルの歴史における記録である以上、またすべての原書が残存しているわけでもありませので、批評研究の対象とされることを否定するべきではありませんが、文言として矛盾し、理解できないことがあるとしても、神の言葉であることを否定するものではないとも考えています。


まわりくどい。神の言葉だ従え、ということを、シャローム特有の、柔和気取りの、気色の悪い書き方です。真に受けないでください。
2018/10/1(月) 午後 1:40st5402jp返信する

顔アイコン>
聖書の言葉は生きていて力があるという聖書の言葉、証言は決して虚しい言葉ではありません。私の60余年の信仰の歩みによって私に与えられた確信です。


シャロームは、聖書の言葉を、奇跡が起こる根拠としてのみ受けて、現実の、生きる心の魅力を全く無視して、伝えようとするのです。それが、シャローム60余年の反信仰の歩みによる訂正不能の確信すなわち妄想となっているのです。

異常、シャロームの社交的詭弁教室の正体です。インテリ気取りの文章に騙されないでください。
2018/10/1(月) 午後 1:41st5402jp返信する

顔アイコン異常(誤)→以上(正)
2018/10/1(月) 午後 1:42st5402jp返信する

顔アイコンアップ予定の私の記事がどんどん増えてゆきます。
2018/10/1(月) 午後 1:49st5402jp返信する

顔アイコンシャロームは、本当に気持ち悪い詭弁家です。
2018/10/1(月) 午後 1:52st5402jp返信する

顔アイコンこのような、シャロームの、柔和と丁寧に見せかけた、とても回りくどいがゆえに詭弁だと気づきにくい詭弁は、ときに反対者への侮辱や嘲りに形を変えて、シャロームの自己愛と正当化のために使われてきました。今後、ぜひ、信仰では全く通じない言説の悪い見本として「シャロームの詭弁」を語り継ぐべきと考えます。
2018/10/1(月) 午後 2:01st5402jp返信する

顔アイコンシャロームの社交と世辞は、それが全く必要のないところでも、使われます。彼の体質かもしれませんが、長い間に処世としてみについたものでしょう。
他のコメント欄での「ご自由に」「ざんねんですね。」「stさんへの神の素晴らしいみこころ、恵みが無にされていること」「自分のブログでの批判だけでは足りないのですか。」「(批判は)あなたの生きる証しでしょうから、これからも元気で続けられたらいいでしょう。」
これらは、対立している者に、そういうコメントの流れで、言ってはいけない、相手を軽く見ている揶揄の言葉になります。ぶん殴るより悪いこと、になりうるのです。
2018/10/1(月) 午後 2:20st5402jp返信する

顔アイコン> st5402jpさん

失礼しました。
2018/10/1(月) 午後 4:45[ shalom ]返信する

顔アイコンこのシャロームのレスの意図は、その場しのぎのような気もしますが、まだ不明です。
今後のコメントや記事に表れるものよって判断する必要があります。
2018/10/1(月) 午後 5:01st5402jp返信する

顔アイコンなお、私は、謝罪を求めてはいません。一連の批判の目的は、シャロームの信仰の誤りを指摘し、それをもって、シャロームが、キリスト信仰の名を用いて、自説を伝道することに、広く一般の読者が感化されないようにすることです。

キリスト信仰の伝道のあり方の問題ですから、シャロームが詫びを入れることで収まるような簡単な問題ではないです。シャロームが本音で議論が出来るとは思えないので、悔い改めるか、記事やコメントを控えるか、という問題になるでしょう。
2018/10/1(月) 午後 5:10st5402jp返信する

顔アイコン>stさん

相変わらず手厳しいですね。
でも、あんまり厳しすぎると、shalomさんも言いたいことも言い難くなりそうだし、少しゆるめてもいいような感じはしますが、どうでしょう。
2018/10/1(月) 午後 6:38[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>shalomさん

リベラルというのは、自分の見当違いだったみたいですね。失礼しました。リベラル云々というのは引っ込めることにします。
2018/10/1(月) 午後 6:42[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん

書いたことは、6年前に批判を始めてから、今までの積み重ねですから、厳しいと言われるくらい言っておかないと、柔和でありたいと思っている求道者や信仰者が、ふら~っと、言いくるめられることを恐れています。

実際、最初から厳しかったわけではないが、はぐらかし、ごまかし、侮辱、などを経て、何を言ってるんだ、何を言ってるんだ、の繰り返しで、呆れ果てた末に厳しくなってきたのです。

基本的に、彼が言ったことを、謝罪であっても、そのまま信用するということはできません。
2018/10/1(月) 午後 7:05st5402jp返信する

顔アイコン自由さんは、自由さんのやり方があるんだろうと思いますけど、
私としては、今まで、社交の慇懃な謝罪はあっても、それで済ませて、何の改善もない人でしたし、深い意味など分かっていなかったし、本気で弱みを一度も見せたことがないのですから、私としては、妥協点は、諦めてます。
2018/10/1(月) 午後 7:10st5402jp返信する

顔アイコンつまり、シャローム氏が書けば必ず全部を批判すると決めたわけではないが、実際は、大方、彼の記事やコメントを見るたびに、また、何を言ってるんだ、ということになり、批判を書くことになっているということです。
2018/10/1(月) 午後 7:16st5402jp返信する

顔アイコンキレ気味の謝罪、社交の謝罪、など、謝罪にも嘘は入りやすいので、安易に分かりました、ではなく、その後の様子を見なければいけないと思っています。
2018/10/1(月) 午後 7:19st5402jp返信する

顔アイコン内緒コメントでも入ってますか。
2018/10/1(月) 午後 7:20st5402jp返信する

顔アイコン>stさん

なるほど。これまでの経緯があるわけですね。
こちらとしては、shalomさんが何か書くたびに批判されているようなので、ちょっと気の毒に感じてしまった次第でした。
過去のことは知らず、今現在の状況だけを見ての感想なので、ちょっと弱いですね。
2018/10/1(月) 午後 8:06[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン内緒コメというのは、shalomさんのこと?
shalomさんとの内緒のやり取りはないですよ。
2018/10/1(月) 午後 8:11[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>キレ気味の謝罪、社交の謝罪、など、謝罪にも嘘は入りやすいので、安易に分かりました、ではなく、その後の様子を見なければいけないと思っています。


これは分かるなあ。とりあえず、その場を収めるための謝罪は、わりとよくあると思うので。
2018/10/1(月) 午後 8:12[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん

私も長い信仰の模索の中で、自由主義神学というような事柄にいくらか関心を持ったことはありましたが、やはり生きている現実の中で、自分の問題に葛藤したり、人の問題や悩み苦しみに触れたりしながら、聖書を読みながら、また本を読んだり、いろんな人のメッセージを聴きながら、追求し、感じていることを書いただけです。自由さんもいろんな道を模索してこられたようですね。
2018/10/1(月) 午後 8:24[ shalom ]返信する

顔アイコン> 自由さん

人や事柄によっては逃げるが勝ち!(笑)ということもありますしね。謝罪だけではなく、批判にも結構嘘が混入してしまいますね。気づきにくいことですが、いろんな防衛機制なども嘘といえば言えるかもしれませんから。
2018/10/1(月) 午後 8:41[ shalom ]返信する

顔アイコン> shalomさん

わざわざコメントありがとうございます。
でも、これはちょっとまずいかも。
しれっと軽口と批判が混じってる感じがするし、stさんはそういうところに批判的なのかも…。
2018/10/1(月) 午後 9:10[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> shalomさん

>逃げるが勝ち!(笑)

自由さんの仰るとおり、私の予想通り、
シャロームのペテン師ぶり、バカ野郎です。永遠に信頼しない。
シャロームは、何も指摘できていないだろう、
2018/10/1(月) 午後 9:32st5402jp返信する

顔アイコンシャロームの性根を示す、いい記事になります。
2018/10/1(月) 午後 9:38st5402jp返信する

顔アイコンシャロームは、やはり、負けを認めるのが、いちばん嫌なようですね。
私は、もとより、勝ちなど求めていないのに。残念です。
2018/10/1(月) 午後 10:59st5402jp返信する

顔アイコン> st5402jpさん おはようございます

「負けを認めるのが、いちばん嫌なようですね」

そうだとおもいます。勝ち負けなんて大嫌いなのですが・・・、
だからいい意味で「人は人、自分は自分」でありたいなと思うのです。人に依存したり、支配しようとしている限り、できませんので、そういう生ける神さまの愛と赦しによる交わり、支えによって自立した自分にしてくださる方がイエスさまなのですが、福音書ではイエスさまと出会った人はどんな人でもそのような自分を回復していますよね。イエスさまの隣の十字架につけられた人も!
2018/10/2(火) 午前 6:58[ shalom ]返信する

顔アイコンでもやはり間違った意味で自分は自分、人は人と思ってしまう自分もあるのですね。イエスさまの十字架の隣のもう一人の人のように。イエスさまは私と一緒に負けようと十字架の上から招いておられるようです…そうすれば私と一緒によみがえりの命に生きることができますよ・・・と。

【口語訳】ロマ
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

「あなたの御言葉がこの身になりますように」と祈ったマリアの祈りを自分の祈りにしたいです。
2018/10/2(火) 午前 6:59[ shalom ]返信する

顔アイコン> shalomさん

「負けを認めるのが、いちばん嫌なようですね」

>そうだとおもいます。勝ち負けなんて大嫌いなのですが・・・、

負けが嫌い、ということを、勝ち負けが嫌い、ということにすり替える詭弁です。

>だからいい意味で「人は人、自分は自分」でありたいなと思うのです。

いい意味で、を付ければ、いい意味になる、という安い詭弁。

すでに、悪い意味を露骨に振りまいた後ですから、もう無駄なのに。
2018/10/2(火) 午前 8:25st5402jp返信する

顔アイコン>
人に依存したり、支配しようとしている限り、できませんので、そういう生ける神さまの愛と赦しによる交わり、支えによって自立した自分にしてくださる方がイエスさまなのですが、福音書ではイエスさまと出会った人はどんな人でもそのような自分を回復していますよね。イエスさまの隣の十字架につけられた人も!


人は人、自分は自分、とシャロームが言うとき、それが自分勝手の自己中心であることが既に指摘されているのに、シャロームは、依存したくない自立、ということに、また、すり替える詭弁です。

しかも、それをさせてくれるのが、キリストだ、というテーマのすり替えと背教。ひどいものです。
2018/10/2(火) 午前 8:25st5402jp返信する

顔アイコンそして、さらに、キリストに出会った人も、十字架についた犯罪人も、自分を回復しているから、自分も回復するという詭弁。

何故なら、キリストに出会った人は神の前に低さを知っていたし、十字架上の犯罪人は悔い改めの告白をしたのです。シャロームは、なにも悔い改めていません。自己正当化だけをしようとしています。ぼろぼろの背教です。

>でもやはり間違った意味で自分は自分、人は人と思ってしまう自分もあるのですね。

これは何を言いたいのでしょう。罪を認めているのでしょうか。一般論を言っているのでしょうか。罪を認めているのなら、はっきりと悔い改めを言うのがキリスト者ですが。
2018/10/2(火) 午前 8:26st5402jp返信する

顔アイコン>
イエスさまの十字架の隣のもう一人の人のように。イエスさまは私と一緒に負けようと十字架の上から招いておられるようです…そうすれば私と一緒によみがえりの命に生きることができますよ・・・と。


悔い改めをしないまま、甦りの命に生きることはできません。当たり前のことです。キリストが招いても、自己正当化に必死で、悔い改めをしない者は、救いを拒んでいるのですから。

その点が、シャロームと、十字架上の犯罪人とは、決定的に違うのです。にもかかわらず、このように、成り立たない言い訳を未練がましく書いている、シャロームは、キリスト者ではない、と、はっきり言えるでしょう。
2018/10/2(火) 午前 8:26st5402jp返信する

顔アイコン>(聖句)バプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである

バプテスマを受けた人は、悔い改めの姿勢を持っています。シャロームは違う。

>(聖句)
その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。


だから、キリストとともに葬られて新しい命に生きるのは、悔い改めて赦された人です。

罪を認めず、言い訳を重ねるという偽善に走る者は、自分信仰者として、一人で死に、一人で黄泉に落ちてゆくしかない、ということなのです。どんどん、シャロームは、罪に罪を、偽善に偽善を、今このコメント欄で、重ねています。同情の余地もなく醜い。
2018/10/2(火) 午前 8:27st5402jp返信する

顔アイコン>(聖句)
わたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。


だから、同じ理由で、
シャロームは、キリストと結びつくことなく、この地上で、よく言われるように、肉体が死ねば、無になるか、死の有り様だけになるか、知らない国へ行くのでしょう。少なくとも、復活は、悔い改めるキリスト者のものなのです。

露骨に醜いシャロームです。
2018/10/2(火) 午前 8:27st5402jp返信する

顔アイコンキリスト者は、求道者も、決して、この人のようにならないでください。

そして、キリスト者も求道者も、世の中には、こういう人が、こうなってしまう人が、実際にいるのだ、ということを認識してください。

シャロームが、負けを認めず、勝ちを欲しがって、罪を赦されたものと見なし、罪悪感を自覚しないまま、自己中心の自分信仰となり、尊大となり、傲慢となり、悔い改めをせずに救われる、という、妄想へと壊れてゆく様を、目の前で見ている気がします。恐ろしいです。

シャロームの真黒なハラワタを見せつけられている気持ちです。気分悪いです。見苦しすぎるから、傍で見ていても、キリスト者として恥ずかしすぎるから、もう何も言わないでほしい、何も書かないでほしいです。

シャロームは、悔い改めないなら、黙っていなさい。
2018/10/2(火) 午前 8:27st5402jp返信する

顔アイコンキリスト信仰は、正直に悔い改める、という、実に、優しく易しく単純素朴は理路を持っています。だから、キリストの荷は負いやすいのです。

しかしながら、それを、信仰の初期から弁えず、奇跡に慢心し、福音伝道者気取りの言説を広めようとしてきた者が、今、どうしようもなく、馬脚をあらわしているのです。
2018/10/2(火) 午前 8:44st5402jp返信する

顔アイコンおはようございます。
stさんはこちらの方で、本欄でのやりとりを記事にまとめておられますね。

・「嘘と詭弁」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19903083.html
・「嘘と詭弁(2)」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19904388.html
2018/10/3(水) 午前 6:48[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>自由さんは、自由さんのやり方があるんだろうと思いますけど、
>2018/10/1(月) 午後 7:10

一昨日、書こうと思いつつ、うっかり忘れてしまってたけど、
私には私のやり方があることを分かってもらえるというのは有り難いです。

思い返してみれば、stさんは、他者批判したくない人にまで批判するようにとは言わないとか、相手のやり方を尊重することをちょいちょい書いてましたね。
2018/10/3(水) 午前 6:54[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンこの議論はとりあえずは一段落したようにも思えるので、以下は、余談として書いてみます。

昨日は他所で、某教団の教祖の長男が発表した動画が話題になってました。
どうやら本人の気持ちとしては、宗教にはもうこりごりであって、教祖(父親)とは決別し、信者にもアンチにもかかわらず、自分の仕事(映画?)に専念したいとのことらしい。

・宏洋の人生ゼンツッパ!! ※炎上注意!!※宏洋は幸福の科学と決別したのか
https://www.youtube.com/watch?v=pF1r0EpljJc
2018/10/3(水) 午前 7:00[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンこれに対して、アンチ側の感想はおよそ二つに分かれてたようです。

・親の影響から脱して自分の人生を生きようとすることを応援する声。
・元教団幹部としての責任を追及する声。

今のところは前者が大勢で、後者は少数のようではあるけれども、この背景には、宏洋さんのことを二世信者問題としてとらえるか、元幹部(教団の内情を知る者)の脱会問題としてとらえるかがあるっぽい。
2018/10/3(水) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンちなみに自分は、これに対して、shalomさんの指摘とからめて考えてました。
「人は人、自分は自分」には、いい意味と、間違った意味とがあるというやつ。



>だからいい意味で「人は人、自分は自分」でありたいなと思うのです。
>2018/10/2(火) 午前 6:58

>でもやはり間違った意味で自分は自分、人は人と思ってしまう自分もあるのですね。
>2018/10/2(火) 午前 6:59
2018/10/3(水) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン思うに、
宏洋さんが、某教団の信者ともアンチとも関わらず、自分のことをしたいというのは、二世信者問題としてはいい意味での「人は人、自分は自分」になり得るけども、だからといって元幹部として責任を放擲するなら微妙かもしれません。

末端の信者であっても、被害者的側面と加害者的側面があってややこしいものがあるけれども、教祖の長男で元幹部ともなれば本当に大変そうです。
2018/10/3(水) 午前 7:07[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン以上、余談でした。

この件は、stさん、shalomさんにはさほど興味はない話題だろうと思うので、スルーで大丈夫です。

では、また。
2018/10/3(水) 午前 7:10[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん

Vのさいご、さんしゃいん・・、とか、なにかさけんでた、なんかおかしかったですけど、・・。
人間は、心の中で自分を怒る者を固定して保つことはできないと思う。クリスチャンだから、神の意志を知るか、私は、知らないと思うし、知りえないと思う。新約だけだと感情に流されると何かに書いてあったけど、人間の行動は情緒や情感など、感情が支えていると思う。神のしもべなら、人間性を離れる、というのは、真っ赤な嘘だと思うから嫌いだ。人間性の良い部分、あえて言うなら良心を促進して、人間を人間らしく成長させ、人間らしく保つためにこそ、信仰はあると思う。神に対して、人間の不完全性、つまり罪深さを自覚しない方向のキリスト教は偽物だと思っています。今のところ、以上。
これから、彼のSNSのほうを見てみるつもりです。
2018/10/3(水) 午後 1:35st5402jp返信する

顔アイコン怒る者(誤)→生かすもの(正)
2018/10/3(水) 午後 1:36st5402jp返信する

顔アイコン> 自由さん

台風24号はあちこちに災害の爪痕を残して去り、さわやかな秋晴れの日を残してくれました。でもまじかに25号が近づいています。多くの被災地では生活再建のめども立てられず、寒い季節も近づくなか秋の実りの収穫が心配されています。
人間万事塞翁が馬という言葉もありますが、やはり良きと思えることも、悪しきと思えることもすべてのことは人知を超えた生ける神の最善のみ心と全能の御手の支配のなかで生かされていることを信じることによって慰め、希望、勇気を与えられることはすべてにまさる神の恵みですね。
2018/10/3(水) 午後 4:23[ shalom ]返信する

顔アイコンそのことを信じて生きることも、私たちにひとりひとりに与えられた自由であり、また自分の良かれと思う道を歩むのも、ひとりひとりに与えられた自由意思による選択、決断に任せられています。よく言われることですが、選ぶ自由は与えられていますがその結果を選ぶ自由はないのです。私たちにとって良い結果であれ、悪い結果であれ、その結果の中で、また新たな道を選び取って生きることが私たちの人生であり、今の位置、状況も自分が自由に選んだ道の結果だあることを受け容れない限り、自分の成長、成熟はむずかしいと思います。その道は狭く、決してたやすい道ではありません。
2018/10/3(水) 午後 4:30[ shalom ]返信する

顔アイコン自分は自分、人は人ですが、私たちは人の中で、人とともに生きているのですから、自由にもいろんな制約がありますから、自分の思いのままに生きていけるわけでもありませんが、その制約も神の御手によって与えられたこととして、受け容れ、自分は自分であり、人は人だと思います。
イエスさまが十字架につけられたの悪意ある誰かのせいではなく、父なる神が供えられた道であり、イエスさま自ら選び取られた道であるとイエスさまご自身が弟子たちに話しておられます。
信仰は自分がどう思うかという道ではなく、生ける神のみことばに導かれて歩むことであるとくり返し、繰り返し、弟子たちに、(私たち)にイエスさまは話し、歩まれ、生きられたのです。その道がいのちの道であることを私たちに証しし、私たちが新たな命に生きるためにご自分の命を与えてくださったのです。
それが福音という言葉の意味です。
自由さん ありがとうございました。
またお会いしましょう。
2018/10/3(水) 午後 4:33[ shalom ]返信する

顔アイコン> shalomさん


人間万事塞翁が馬という言葉もありますが、やはり良きと思えることも、悪しきと思えることもすべてのことは人知を超えた生ける神の最善のみ心と全能の御手の支配のなかで生かされていることを信じることによって慰め、希望、勇気を与えられることはすべてにまさる神の恵みですね。


「失礼しました」の後で白々しく「負けるが勝ち!(笑い)」と言ったのは、決して塞翁が馬ではなく、シャロームの選択なのです。
2018/10/3(水) 午後 6:34st5402jp返信する

顔アイコンシャロームは、そのことを、神の御心と言い、それも神の支配の中で生かされること、そして、神の恵みだと言っています。何という背教でしょう。反省も悔い改めもなく、神のせいにしているのです。

人間性を捨ててしまうと、常識的な判断さえできなくなり、このようなことを平気で書いてくるのです。
2018/10/3(水) 午後 6:34st5402jp返信する

顔アイコン>
そのことを信じて生きることも、私たちにひとりひとりに与えられた自由であり、また自分の良かれと思う道を歩むのも、ひとりひとりに与えられた自由意思による選択、決断に任せられています。


自らの不正を神のせいにして、どう信じて生きるというのでしょう。このシャロームの言い訳と言い逃れと無責任を決して忘れてはならないと思います。


よく言われることですが、選ぶ自由は与えられていますがその結果を選ぶ自由はないのです。


結果を受けてどうするかという問題を、結果を選べないという一般論で、反省も悔い改めもしないことを不可抗力のように偽っています。どこまで腐っているのでしょう。これが根腐れの詭弁なのです。
2018/10/3(水) 午後 6:35st5402jp返信する

顔アイコン>
私たちにとって良い結果であれ、悪い結果であれ、その結果の中で、また新たな道を選び取って生きることが私たちの人生であり、今の位置、状況も自分が自由に選んだ道の結果だあることを受け容れない限り、自分の成長、成熟はむずかしいと思います。その道は狭く、決してたやすい道ではありません。


不正の結果に対し、またしても、一般論に変換する詭弁をもって、新しく進む、などと言っています。詭弁に次ぐ詭弁です。

言っておきますが、不正の結果を反省もせず、受け容れるならば、この地上は、悪がはびこるだけになるのです。シャロームは、自らの悪、罪、偽善を受け入れるといっているのです。詭弁臭と偽善臭にまみれた言い逃れです。もはや、病識のない妄想病と言われても仕方ないでしょう。
2018/10/3(水) 午後 6:35st5402jp返信する

顔アイコン>
自分は自分、人は人ですが、私たちは人の中で、人とともに生きているのですから、自由にもいろんな制約がありますから、自分の思いのままに生きていけるわけでもありませんが、その制約も神の御手によって与えられたこととして、受け容れ、自分は自分であり、人は人だと思います。


神の与えた制約を無視して、シャロームは、偽善を働いたのです。

今に始まったことではありません。私が批判を続けてきた理由でもあります。根拠を示してもコメントが多いというだけで荒らしと侮辱して削除してきた男です。

シャロームの言っていることは、人は罪を反省し悔い改めるが、自分はこれからも罪なき者として振る舞うといっているのです。詭弁を弄して、開き直るシャロームを忘れないでください。決して、彼を受け入れることがあってはいけないと思います。
2018/10/3(水) 午後 6:35st5402jp返信する

顔アイコン>
イエスさまが十字架につけられたの悪意ある誰かのせいではなく、父なる神が供えられた道であり、イエスさま自ら選び取られた道であるとイエスさまご自身が弟子たちに話しておられます。


とうとうキリストの十字架刑さえも、神が備えた道、すなわち正しいと言いだしました。悪意ある誰かはいなかったでしょうか。はいはいと言ってキリストは十字架についたでしょうか。キリストは敵であるパリサイ人たちを強く批判しなかったでしょうか。敵意と悪意によってキリストは十字架についたのです。でなければ十字架の意味はなく、ただのホラーになってしまいます。

詭弁の言い訳を詭弁でしているシャロームは、決してキリスト者ではありません。聖書を読んでいないのかと言いたい。すみませんが罵詈雑言を言います。馬鹿野郎。黙れ。
2018/10/3(水) 午後 6:36st5402jp返信する

顔アイコン私の記事「批判(8)パリサイ人」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19825552.html より、
(以下引用。)

(マタイによる福音書、口語訳)
15:7
偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9
人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
(マタイ15:7-9、新約聖書)

(マタイによる福音書、口語訳)15:13
イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
(マタイ15:13、新約聖書)
2018/10/3(水) 午後 6:36st5402jp返信する

顔アイコン(マタイによる福音書、口語訳)22:15
そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。
(マタイ22:15、新約聖書)

(マタイによる福音書、口語訳)23:13
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
(マタイ23:13-15、新約聖書)

(マタイによる福音書、口語訳)23:25
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 23:26盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
(マタイ23:25、新約聖書)
2018/10/3(水) 午後 6:36st5402jp返信する

顔アイコンシャロームは、現代のパリサイ人、神の御心だと言って、キリストを殺す者です。


信仰は自分がどう思うかという道ではなく、生ける神のみことばに導かれて歩むことであるとくり返し、繰り返し、弟子たちに、(私たち)にイエスさまは話し、歩まれ、生きられたのです。


その神の御言葉にも御心にも、繰り返し、繰り返し、背いているのが、シャロームです。
2018/10/3(水) 午後 6:37st5402jp返信する

顔アイコンシャロームには、次の聖句が相応しいと思います。

(マタイによる福音書、口語訳)
7:15
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
7:16
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
・・・
7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
(マタイ7:15-16,23、新約聖書)
2018/10/3(水) 午後 6:37st5402jp返信する

顔アイコン>
その道がいのちの道であることを私たちに証しし、私たちが新たな命に生きるためにご自分の命を与えてくださったのです。
それが福音という言葉の意味です。


自分の罪と偽善を認めず、反省せず、悔い改めもせず、さらに、弁明にもならない言い逃れを重ねて、詭弁という偽善の罪を犯し、それを、いのちの道と呼んでいるシャロームは、書いてくる言葉が、すべて、反信仰となっています。もはや、滅びゆく者のしるしだけを表しています。

罪は、悔い改めの身によって赦されます。
嘘と詭弁の偽善によって赦されることはない。
2018/10/3(水) 午後 6:38st5402jp返信する

顔アイコン> 自由さん

長くなってしまいました。すみません。

悔い改めの身によって(誤)→悔い改めのみによって(正)
2018/10/3(水) 午後 6:40st5402jp返信する

顔アイコン> st5402jpさん

「罪は、悔い改めのみによって赦されます。」・・・

この考えはあなたが一番嫌いな偽善者パリサイ人の考えです。イエスさまを十字架につけた「義人はいないひとりもいない」という人間の隠された罪の実体です。
神による罪の赦しだけが人を悔い改めに導く神の力であり、恵みなのです。あなたは人の前では灰をかぶり、衣を裂いて悔い改めを演じているパリサイ人なのです。使徒パウロもかつてはそのようなパリサイ人でした。
stさんが百万言を費やして私を批判しても、覆させることはできません。あなたがご自分のブログに書かれているように「制裁は神にゆだねる」ことが最善ではないですか。
shalom!
2018/10/3(水) 午後 7:32[ shalom ]返信する

顔アイコン>
この考えはあなたが一番嫌いな偽善者パリサイ人の考えです。イエスさまを十字架につけた「義人はいないひとりもいない」という人間の隠された罪の実体です。
神による罪の赦しだけが人を悔い改めに導く神の力であり、恵みなのです。あなたは人の前では灰をかぶり、衣を裂いて悔い改めを演じているパリサイ人なのです。使徒パウロもかつてはそのようなパリサイ人でした。
stさんが百万言を費やして私を批判しても、覆させることはできません。あなたがご自分のブログに書かれているように「制裁は神にゆだねる」ことが最善ではないですか。


神の前に正直に告白し信仰を改めようとする者の、神の前に、へりくだった低く敬虔な態度に答えて、神は罪人を憐れみ、その罪を赦すのです。救われた人々は皆そうです。

ペテロもパウロも悔い改めて使徒になったのです。
2018/10/3(水) 午後 8:19st5402jp返信する

顔アイコン狂ったのですか。意味不明です。少なくともキリスト教ではありません。ひょっとして、あなたは、教会から追い出されたのではありませんか。悔い改めという言葉を知らないのではないですか。あなたのような人は教会にいてはいけません。

悔い改めもせずに神に委ねるならば、裁きしか待っていません。神の前に正直な人が、口で告白して義とされるのです。キリスト者なら、みんな知っていることです。

あなたは、牧師でもなければ、キリスト者でもない。キリスト教に巣食う害虫です。

百万言どころか、何も言わなくても分かっていることです。キリスト者なら。

あなたの詭弁こそ、百万言を費やしても、義とされることはありません。あなたが覆されるかどうかなど、関係ありません。あなたは、部外者だと分かります。キリスト教の外で、キリスト教について何も語らず、黙って、勝手に、あなたの神?に委ねたらよろしいでしょう。
2018/10/3(水) 午後 8:19st5402jp返信する

顔アイコン神の裁きは、どうやら、既に、進行中のようです。
2018/10/3(水) 午後 8:21st5402jp返信する

顔アイコン自分は、キリスト教のことには詳しくないですけど、お二人の意見はこの辺りは正反対になってるように思えました。
2018/10/3(水) 午後 9:23[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>stさん
>新約だけだと感情に流されると何かに書いてあったけど、人間の行動は情緒や情感など、感情が支えていると思う。神のしもべなら、人間性を離れる、というのは、真っ赤な嘘だと思うから嫌いだ。人間性の良い部分、あえて言うなら良心を促進して、人間を人間らしく成長させ、人間らしく保つためにこそ、信仰はあると思う。
>2018/10/3(水) 午後 1:35

>shalomさん
>信仰は自分がどう思うかという道ではなく、生ける神のみことばに導かれて歩むことであるとくり返し、繰り返し、弟子たちに、(私たち)にイエスさまは話し、歩まれ、生きられたのです。
>2018/10/3(水) 午後 4:33
2018/10/3(水) 午後 9:24[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>shalomさん
神による罪の赦しだけが人を悔い改めに導く神の力であり、恵みなのです。あなたは人の前では灰をかぶり、衣を裂いて悔い改めを演じているパリサイ人なのです。使徒パウロもかつてはそのようなパリサイ人でした。
2018/10/3(水) 午後 7:32

>stさん
神の前に正直に告白し信仰を改めようとする者の、神の前に、へりくだった低く敬虔な態度に答えて、神は罪人を憐れみ、その罪を赦すのです。救われた人々は皆そうです。
2018/10/3(水) 午後 8:19
2018/10/3(水) 午後 9:24[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンこちらの感想としては、
前者については、自分は自分の情緒、思いを脇にどけて、神の言葉にひたすら従うことはできないように思うので、stさん寄りかなと思います。
でも一信者ではなく、聖職者の場合は、自分をすてて、ひたすら神のみに従い、神の道具になりきることを理想とするものかもしれません。

後者については、キリスト教の本で、悔い改めより先に赦しがあると読んだ記憶があるので、shalomさんの言うことも分かるように思います。
ただこれは神の側から見た話であって、人の側から見たら悔い改めをして、こんな自分も赦し受け入れてくださると実感するのが順序かもしれません。

以上、大体こういう感想をもった次第です。
2018/10/3(水) 午後 9:35[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンシャロムは、正直さもなく、悔いることもなく、改めることもなく、・・負けるが勝ち{笑い}・・、などというのは、神の御言葉に導かれて歩む信仰に、全然なっていないということです。体よく書いたつもりでも、一貫して、シャロムは、自分の都合しか考えない、嘘を吐き続けていると思います。シャロムには、誠実な信仰の表れがまるでないということです。真面目にシャロムの言うことを受け取るのは、むしろ危険だと思います。
2018/10/3(水) 午後 9:48st5402jp返信する

顔アイコン見当違いかもしれないですけど、お二人の意見は、どっちかが正しく、どっちかが間違ってるというよりも、視点の違い、立ち位置の違いという場合もありえるのかな。
2018/10/3(水) 午後 9:50[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン誰かを嘲笑って、神に従う道などありません。聖職者もキリスト者ですから、変わりはありません。そこで既に、シャロムの言は、成り立っていないのです。
悔い改めより先にあるのは、神の救いの意志ですが、人にとってそれは救われる機会ということです。「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」という聖句があります。シャロムはどちらも外れています。信じているならあの不誠実はないし、口で罪を告白したのは大嘘でした。そのことを、シャロムは、何も変えようとしていないのです。
2018/10/3(水) 午後 9:55st5402jp返信する

顔アイコンつまり、イエスは主であると信じて告白すること自体が、シャロムにおいて、嘘と判断するしかないのです。とてもシンプルな問題で、シャロムは、聖書語でごまかそうとしていますが、嘘は嘘なのです。その時点で、シャロムは、アウトなのです。言い訳は醜いだけです。
2018/10/3(水) 午後 10:02st5402jp返信する

顔アイコン>聖職者もキリスト者ですから、変わりはありません。

>悔い改めより先にあるのは、神の救いの意志ですが、人にとってそれは救われる機会ということです。

この部分、なるほどと思えました。ありがとうございます。
2018/10/3(水) 午後 10:06[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン裁きは、神に委ねられることです。私は、シャロームがどうあるか、ということを書いてきたし、今も書いているだけです。人間として、真実の追求は、キリスト者の務めです。ゆえに、嘘を嘘ということ、これもキリスト者の務めです。私は、務めとして、できることをしています。
2018/10/3(水) 午後 10:24st5402jp返信する

顔アイコン> 自由さん

「自分は自分の情緒、思いを脇にどけて、神の言葉にひたすら従うことはできないように思うので、stさん寄りかなと思います。
でも一信者ではなく、聖職者の場合は、自分をすてて、ひたすら神のみに従い、神の道具になりきることを理想とするものかもしれません。」

これが親の子供に対する態度また教師の子供たちに対する指導だとすると、きっと子供は親や教師の言動の表向きの正しさの前に黙らされ、沈黙させられるでしょう。しかし、子どもは自分のありのままに愛し、受け容れられていないことを感じ取り、心は傷つき、不信と怒りを心の中に閉じ込めていくほかなくなり表向きは素直に親や教師に従っているような態度をしていても親、教師の言動、指導の言動の背後に隠されている偽善に気づき、しかし、子どもは親や教師を責めることもできず、自分に対する自責の念、罪責感、無力感に押しつぶされ、自分自身の人格否定の挫折感に囚われてしまうでしょう。心の奥底に封じ込められた怒り、不信感は自分と親や教師だけにとどまらず、人間、社会にたいする怒りとして向かられてしまうのは当然だと思います。
2018/10/3(水) 午後 11:44[ shalom ]返信する

顔アイコンそれなのに、「でも子どもは(一信者ではなく、聖職者の場合は)の場合は、自分をすてて、ひたすら親、教師のみ(神のみ)に従い、親や教師の(神の)道具になりきることを理想とするものかもしれません」なんてことはできません。それこそカルトの世界です。
自由さんは本当にそんなことができると思われますか。それは偽善者が人を偽善者とし、、盲人が盲人の手引きをすることでしょう。イエスさまはパリサイ人にあなたがたは盲人が盲人の手引きしているようなものだといわれました。イエスさまがそんな信徒や聖職者を喜ばれることはあり得ません。人の論理や情感に信頼していてはみ言葉の理解はむずかしいと思います。弟子たちがイエスさまの一番近くにいて、その言葉やみわざをだれよりも身近で見聞きしていたのに、イエスさまを理解できなかったこと、ついには裏切り、見捨てて逃げてしまったことに表わされています。それは例外なく、私たちすべての人にある弱さではないでしょうか。
2018/10/3(水) 午後 11:45[ shalom ]返信する

顔アイコンいつも長くなってしまいますね。読んでくださり感謝します。
このコメントでおしまいにしたいですね。
私も寝る時間をとっくに過ぎてしまいました。
それでは Shalom!
2018/10/3(水) 午後 11:46[ shalom ]返信する

顔アイコン> shalomさん

おしまいにしてください。迷惑です。
2018/10/4(木) 午前 2:16st5402jp返信する

顔アイコンシャロームは、既に明らかになった不正の事実を認めようとしません。反省するどころか、狂ったように、執拗に、反論めいたことを書いて、ますます恥をさらしています。殆どパニックに近い。

自分の非を認めないのは、昔からです。罪を認めないで、それを覆い隠そうと、どこへも響かない言葉を並べる偽善の醜さの見本です。

と同時に、シャロームの信仰はカルトだと思います。シャロームの説く宗教は、決してキリスト教ではないし、シャロームの信仰は、決してキリスト信仰ではない、ということを覚えてほしいと思います。
2018/10/4(木) 午前 2:16st5402jp返信する

顔アイコンシャロームは、自由さんのコメントを、都合の良いように解釈して、自己正当化を図っています。


これが親の子供に対する態度また教師の子供たちに対する指導だとすると、きっと子供は親や教師の言動の表向きの正しさの前に黙らされ、沈黙させられるでしょう。


このように、社交の礼儀だけで交流し、賛同コメントにヘラヘラと愚にもつかぬ世辞を返し、逆らうと、嫌がらせや、汚い侮辱をしてきたのは、他でもない、シャロームなのです。
2018/10/4(木) 午前 2:17st5402jp返信する

顔アイコン>
しかし、子どもは自分のありのままに愛し、受け容れられていないことを感じ取り、心は傷つき、不信と怒りを心の中に閉じ込めていくほかなくなり表向きは素直に親や教師に従っているような態度をしていても親、教師の言動、指導の言動の背後に隠されている偽善に気づき、しかし、子どもは親や教師を責めることもできず、自分に対する自責の念、罪責感、無力感に押しつぶされ、自分自身の人格否定の挫折感に囚われてしまうでしょう。


責められることを最も嫌って、コメントを削除し、さらに二千以上の記事のコメント欄を閉鎖してきたのは、シャロームその人です。シャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けてきます。自分の病的な欠陥にまるで病識のない人、自分を見つめることの出来ない人、というのは、こういうことをしてくる、と思ってください。
2018/10/4(木) 午前 2:17st5402jp返信する

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心の奥底に封じ込められた怒り、不信感は自分と親や教師だけにとどまらず、人間、社会にたいする怒りとして向かられてしまうのは当然だと思います。


彼が向けてきた言葉が、彼自身のことを語るという結果になっています。このようにして、シャロームは、社会や歴史や他者をボロクソに言うところの、シャロムのボロクソ節を、性懲りもなく、ブログに何度も何度も書いてきたのです。今、まさにそうです。こうはなりたくない。


それなのに、「でも子どもは(一信者ではなく、聖職者の場合は)の場合は、自分をすてて、ひたすら親、教師のみ(神のみ)に従い、親や教師の(神の)道具になりきることを理想とするものかもしれません」なんてことはできません。それこそカルトの世界です。


シャロームの執拗な自己正当化と病的な確信の強さによる訂正不能は、まるで、自分は神と一心同体だ、と言っているかのようです。
2018/10/4(木) 午前 2:18st5402jp返信する

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自由さんは本当にそんなことができると思われますか。それは偽善者が人を偽善者とし、、盲人が盲人の手引きをすることでしょう。


そして、まさにシャロームは、偽善者が、人を偽善者の道に誘惑し、盲人が盲人への手引きをするようなことをしているのです。シャロームには、キリスト教について、キリスト信仰について、キリストについて、何も語ってほしくない。

ここまで外れると、シャロームにはキリストを語る資格はないと思います。キリスト信仰は、キリスト者のためにあります。一生黙っていてほしいです。執念深くキリストをけがすとは、いったい、どういう人なのでしょう。呆れます。
2018/10/4(木) 午前 2:18st5402jp返信する

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イエスさまはパリサイ人にあなたがたは盲人が盲人の手引きしているようなものだといわれました。イエスさまがそんな信徒や聖職者を喜ばれることはあり得ません。


主イエスは、そのような現代のパリサイ人であるシャロームを喜ばれることはあり得ないと思います。シャロームは、どこまで人を欺こうとするのか。

>人の論理や情感に信頼していてはみ言葉の理解はむずかしいと思います。

人間の論理や情感を信頼するなと言っています。シャロームの本音なのでしょう。人間性を捨てよ、人間の良心を捨てよ、というシャロームの邪教の正体です。
2018/10/4(木) 午前 2:18st5402jp返信する

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弟子たちがイエスさまの一番近くにいて、その言葉やみわざをだれよりも身近で見聞きしていたのに、イエスさまを理解できなかったこと、ついには裏切り、見捨てて逃げてしまったことに表わされています。それは例外なく、私たちすべての人にある弱さではないでしょうか。


弟子たちは、主イエスを、現世のイスラエルの王様になるだろうと、誤解していたのです。それは、そのまま、弟子たちの欲望でもありました。その勘違いによって弟子たちは、キリストの十字架の意味を悟ることが出来ず、また、怖くなって、キリストを裏切ったのです。

弟子たちは論理や情感のために誤解して裏切ったのではありません。
2018/10/4(木) 午前 2:19st5402jp返信する

顔アイコンペテロは、情感が豊かであったために、裏切ったのち激しく泣いたのです。それは、悔い改めて使徒となるために大事なことでした。

パウロは、論理と知識が豊かであったために、それが悔い改める切っ掛けとなり、悔い改めたのちは、彼の論理の才能と知識が伝道のために役に立ったのです。聖書を読めば、そう感じることが多いのです。シャロームは、聖書から何も受け取っていないと思います。

シャロームは、自分信仰に陥ったために、論理や理路を理解することも、組み立てることも出来ず、人間らしい情感をもって共感することも出来ず、ただ超常の聖書語を亡者のように繰り返すだけになっています。しかも、そのことに執着して、何も分かっていない自分をごまかすために、執拗に迷惑なコメントを書き続けているのです。
2018/10/4(木) 午前 2:19st5402jp返信する

顔アイコン推測ですが、訂正不能の妄想に取りつかれているシャロームには、理路を考える人や、情感の豊かな人への、ねたみの感情があると感じます。そういう感情を、ルサンチマン(≒弱者に募る怨念)と言います。つまり、シャロームの信仰?なるものは、怨恨をベースとしているようです。

だから、信仰を、それこぞ何でもかんでも神の啓示と奇跡の大仰な話としてしか語れなくなって、そのために、心を失ってしまって、その反動で、論理と情感を憎んでいるのだろうと思います。そのことは、キリスト者にとって、甚だ、迷惑な話なのです。
2018/10/4(木) 午前 2:20st5402jp返信する

顔アイコン> st5402jpさん おはようございます

口語訳ロマ2:1~
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。

【口語訳】二コリ
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです。


shalom!
2018/10/4(木) 午前 8:03[ shalom ]返信する

顔アイコン> shalomさん

>悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです。

悔い改めは、神が与える恵みではなく、与えられた機会に、神に対して人がすることです。いつまで、つまらない詭弁で、自分をごまかし、人を悩ませ、醜態をさらすのか。

神が与える、というより、下されるものに、裁きがあります。シャロームは、もう、人間としての節操を失っているので、自分で引用した聖句によって自分を責める結果になるのです。ゆえに、既に、裁きが進行中なのかもしれないと思うのです。神の前で、嘘に嘘を重ねてゆくと、こうなる、ということを覚えてください。
2018/10/4(木) 午前 8:45st5402jp返信する

顔アイコン>(聖句)
悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。


この聖句が、シャロームに向かいます。
2018/10/4(木) 午前 8:46st5402jp返信する

顔アイコン>
【口語訳】二コリ
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。


シャロームは、今もまだ、神の御心に添うているつもりなのでしょうか。しかしながら、シャロームは、あざ笑いを表しましたが、悲しみを表したことがありません。不機嫌そうに、聖句を悪用して、文句ばかり言っているのです。ゆえに、聖句にも戒められる存在となりました。
2018/10/4(木) 午前 8:46st5402jp返信する

顔アイコンそうして、また一つ、批判記事が出来る。裁くのは、神である。
2018/10/4(木) 午前 8:48st5402jp返信する

顔アイコンシャロームさん、あなたが、また、書けば、必ず、おかしなことを言うことになる、という経過ですから、また、私は書くことになります。考えてみれば、すべて、あなたが選んでいる成り行きなのです。そのように裁きは進行するのでしょう。

だから、もう無駄なのに・・と、あなたの失言の後に、私は書いたのです。
2018/10/4(木) 午前 9:00st5402jp返信する

顔アイコン>
口語訳ロマ2:1~
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。

【口語訳】二コリ
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです。


8:03についてレスしておきます。
2019/1/30(水) 午後 6:56st5402jp返信する

顔アイコン(私)
裁くというのは、神という絶対の正しさが、多くは強制的に、背く人に対して下すものです。人が、自分を絶対の正義に置き、誰かを悪と決めつけて、何らかの制裁を下すなら、裁くことになるということを聖句は教えています。それを、冷酷にやっているのは、むしろシャロームであります。シャロームの前提には、自分の絶対正義があり、ゆえに、聖句を引用すれば、その目的も解釈も神の御心に適っているという前提が訂正不能になっているのです。
(私)
私は絶対の正しさなど持っていないので、言論によって、シャロームの誤りや矛盾や詭弁や卑怯さなどを指摘してきました。ゆえに、裁くということとは明らかに違います。私は、遠慮なく書いているので、それが気に入らないシャロームは、聖句の悪用をもって、裁いている、裁いていると、わめいているに等しい決めつけをしています。その決めつけこそが、裁いている思考と志向なのです。絶対ではない自分を知っているなら、悔い改めるはずです。シャロームは、全く、その逆を走っています。
2019/1/30(水) 午後 6:56st5402jp返信する

顔アイコン(私)
「神の慈愛があなたを悔改めに導く」「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き」という聖句は、神の慈愛を受け取った人は、その愛ゆえに悲しみを癒やされ、罪を赦されるゆえに、悔い改めるということです。
シャロームは、教条的に、言葉の辻褄だけで、神が導く、という言葉を吊り上げて、悔い改めは神が与える恵みだと言っています。
(私)
上の聖句によると、この約7年間、恐らくずっと前から、悔い改めたことのないシャロームは、神の慈愛を受け取ったことがない、ということになります。それで説明がついてしまいます。
(私)
シャロームは、聖句を、超常の辻褄と教条だけで受け取って上のような聖句を悔い改めないことの根拠にしたいようですが、じつは、せっせと墓穴を掘っているということです。
(私)
心で受け取ることのないシャロームの、本当の悲しみを知らず、本当の神の慈愛も、キリストの共感もキリストへの共感も知らないことからの必然であるのかもしれません。
2019/1/30(水) 午後 6:58st5402jp返信する