『群像』に載ってた対談記事によると、石原慎太郎は、人は死ねば虚無になると考えているようだ。なんとなしに、石原慎太郎は霊魂…死後の生を信じてる人だとばかり思ってたので、これはちょっと意外だ。その部分だけ切り抜くとこんな感じ。
でも現実をありのままに見るならば、こういう結論にならざるを得ないのかもしれない。
たとえば、自分は熟睡している時は意識は無くなるし、それなら死んだ時も、そんな風になるのだろうと推測するのは自然な成り行きではある。
また死者は何も言わないし、身動きもしない。火葬されれば、骨壺の半分にも満たぬほどの灰になってしまう。そうして二代、三代と時が経つうちに忘れられてゆく。人生はこれで終わりである。
一説によれば、人はもろもろの要素が集まることで生じ、その要素が離れ、分解されることで滅びるのであって、そこから離れて永遠に存続し得る自己なるものはないというような話もあるようだけども、現実を見る限りはこの話はその通りのようにも思える。
とはいえ、もちろんこれに反対する意見もなくもない。たとえば…。
「ないことは証明できない。霊魂は存在しないなんて、誰にも断言できない」
「人は死んだら虚無になるというのは納得できない。それでは一切は無意味になってしまう。それは受け入れ難い。私は、人は肉体は亡びても、霊魂は生き続けると信じる」
「生命が偶然に生まれるわけがない。ましてや人間のような複雑な生物が、偶然に生まれるわけがない。このように複雑な人間が存在すること自体が、創造主たる神が存在することを証明している。神が存在するなら、霊魂も存在するだろうし、人は死んだら終わりという言説には全く説得力はない」
「ないことは証明できない。霊魂は存在しないなんて、誰にも断言できない」
「人は死んだら虚無になるというのは納得できない。それでは一切は無意味になってしまう。それは受け入れ難い。私は、人は肉体は亡びても、霊魂は生き続けると信じる」
「生命が偶然に生まれるわけがない。ましてや人間のような複雑な生物が、偶然に生まれるわけがない。このように複雑な人間が存在すること自体が、創造主たる神が存在することを証明している。神が存在するなら、霊魂も存在するだろうし、人は死んだら終わりという言説には全く説得力はない」
こういう意見を信じるか信じないかは人によるのだろうけれども、これらはすべて信仰ではあっても、現実であるという証はないのだから仕方がない。現実を直視する限りは、いまのところは、霊魂は存在するというよりは、死んだら終わりという方に分がありそうではある。
ただこの問題は、結局のところ、生きてる間は解決はつかないのかもしれない。人は死後を経験しないうちは、それについてどうとも想像できるし、どうとでも言えるが、それが真実であるかどうかは決して分からないだろうし…。
とすれば、霊魂はあると信じるのも、霊魂はないと信じるのも、どちらも極端であるし、それなら損得勘定をするようで嫌な気もするが、とりあえずはどちらが真実であってもいいような生き方を選択するのが無難かもしれない。つまり、できるだけ善く生きる努力をするということ。
なんかこういう考え方は消極的にすぎる感じがしないでもないけれども、死後を知らない自分のような平凡人にとっては、これが精一杯かなとは思う。〈了〉
*追記
上の文章を書いたあと、本を読んでいたら、次の文章をみつけた。
上の文章を書いたあと、本を読んでいたら、次の文章をみつけた。
将軍はベッドに横たわっているロレンソ・カルカモをじっと見つめたが、カルカモはまるで敗北に敗北を重ねてきたあと、最後の戦場に横たわっている軍人のように思われた。将軍は訪問を切り上げようとして、こう言った。「こういうことも、死んでしまえばすべて終わりだよ」ロレンソ・カルカモは、悲しげな表情を浮かべて力なく立ち上がった将軍を見つめた。(『迷宮の将軍』ガブリエル・ガルシア=マルケス著、木村榮一訳、新潮社、1991年、p.123)
何となしに手に取って開いた本のページに、自分の関心事に対する答えがズバリと書いているということは、たまにあることではあるが、こういう偶然はなんかおもしろいと思う。
私自身は、「思いの行きつく先はある」と思って生きることにしています(⌒∇⌒)
tam
がしました