久しぶりに、『呪われた町』を読み返してみた。
あらすじは、吸血鬼バーローがアメリカの田舎町に入り込み、夜の闇に紛れて住民たちを次々に餌食にして行くというものだけども、内容はほとんど忘れていたせいか結構おもしろく読めた。
あらすじは、吸血鬼バーローがアメリカの田舎町に入り込み、夜の闇に紛れて住民たちを次々に餌食にして行くというものだけども、内容はほとんど忘れていたせいか結構おもしろく読めた。
なかでも、一番よかったのは、吸血鬼とキャラハン神父との対決の場面だった。どういう場面かというと…まずキャラハン神父は十字架を掲げつつ、捕まえた子供をいたぶる吸血鬼に、次のように命じている。
「やめろ!」とキャラハンが叫んだ。「やめろというのかね?」憎しみの表情が拭ったように消えた。陰気な愛想笑いがそれにとってかわった。「この子の処刑を延期して、別の晩までとっておけというのかね?」「そうだ!」ほとんど喉を鳴らさんばかりの甘い声で、バーローがいった。「ではその十字架を投げ捨てて、対等の条件でわたしと相対するか――黒対白として対決するか? お前の信仰とわたしの信仰の対決を望むか?」「いいとも」と、キャラハンは答えた。が、その口調にはかすかな動揺があった。(『呪われた町 (下)』スティーヴン・キング著、永井淳訳、集英社、2007年、p.242)
この後、吸血鬼は約束通りに、子供を解放してやる。
でも、キャラハン神父は十字架を手放すことはできない。するとどういうわけか、吸血鬼をたじろがせるほどの光を放っていた十字架に異変があらわれる。
キャラハンは迷った。なぜ十字架を投げだすのだ? 彼を追い払って、今夜のところは引き分けで我慢し、明日あらためて――しかし、彼の心の奥には、警告を与える声があった。吸血鬼の挑戦を斥けることは、かつて彼が考えも及ばなかった重大な可能性を危うくすることだ。もしも十字架を投げ捨てなければ、それはみずから認めるのも当然だ……認めるって、なにを? いろんなことがこれほどめまぐるしく起こらなかったら、考える時間さえあったら――十字架の輝きは消えかけていた。(同上、pp.244-245)
キャラハンの手の中で十字架が震え、突然最後の光がふっと消えた。
バーローが闇の中からぬっと手をのばして、彼の指から十字架をもぎとった。(pp.245-246)
十字架を失ったキャラハン神父は、この次の瞬間には、吸血鬼に捕まり、信仰者としては死よりも怖ろしい儀式を受けさせられ、呪われた者となって行方をくらますことになる。(キャラハン神父の最期は、同著者の『ダークタワー』に詳しい)
それにしても、このエピソードは本当にいろいろと考えさせられる。たとえば…こんな感じだ。
神様は、たとえ吸血鬼が相手であっても、約束を違えることは好まないのだろうか?
揺るぎない信仰があってこそ十字架は輝くのであって、信仰が弱ければ十字架はただのモノにすぎなくなるのだろうか?
心こそがすべてだというけれども、これもそういうことか?
本当の敵は、吸血鬼ではなく、己の心の中にある迷いだったということか?
もし自分が神父の立場だったら、やっぱり十字架は手放せなかっただろうか?
自分だったら、体中に十字架とニンニクをぶら下げることができたとしても、吸血鬼と対面するのは御免こうむる!
そもそも神様は、なぜ吸血鬼を野放しにしておくのだろう?
吸血鬼は現実には存在しないとしても、人を食い物にする悪者はいる。吸血鬼はこの手の悪者の象徴かな?
とすれば、吸血鬼の餌食になった者も吸血鬼になるというのは、悪は伝染するということかな? 「あいつだってやってる。だったら俺だって」みたいに…
そういえば作中では、丘の上の屋敷(吸血鬼の住処)のことを、町を見下ろす暗い偶像、悪の記念碑というような表現をしていた。これからすれば、吸血鬼は吸血鬼というだけでなく、悪の象徴と見ることもできるかもしれない、
などなど。
神様は、たとえ吸血鬼が相手であっても、約束を違えることは好まないのだろうか?
揺るぎない信仰があってこそ十字架は輝くのであって、信仰が弱ければ十字架はただのモノにすぎなくなるのだろうか?
心こそがすべてだというけれども、これもそういうことか?
本当の敵は、吸血鬼ではなく、己の心の中にある迷いだったということか?
もし自分が神父の立場だったら、やっぱり十字架は手放せなかっただろうか?
自分だったら、体中に十字架とニンニクをぶら下げることができたとしても、吸血鬼と対面するのは御免こうむる!
そもそも神様は、なぜ吸血鬼を野放しにしておくのだろう?
吸血鬼は現実には存在しないとしても、人を食い物にする悪者はいる。吸血鬼はこの手の悪者の象徴かな?
とすれば、吸血鬼の餌食になった者も吸血鬼になるというのは、悪は伝染するということかな? 「あいつだってやってる。だったら俺だって」みたいに…
そういえば作中では、丘の上の屋敷(吸血鬼の住処)のことを、町を見下ろす暗い偶像、悪の記念碑というような表現をしていた。これからすれば、吸血鬼は吸血鬼というだけでなく、悪の象徴と見ることもできるかもしれない、
などなど。
ホラー小説のようなエンターテイメント作品を読んで、あれこれと考えてしまうというのは、我ながら気恥しい感じがしないでもないけれども、こういう本によって宗教書を読む以上に宗教的な感動を得ることもあるのだから不思議なものである。
娯楽作品は、古典聖典などと比べると、軽く見られがちではあるけれども、人の心に与える感動、影響という点からすると、なかなかに侮れないものはあるのかなあと思う。
最後に蛇足ながら、本作のヒロインのスーザンは悲劇に遭ってたけれども、スーザンという名のヒロインが悲劇に遭うといえば、『ダークタワー』でも同じである。
また、本作のふられ役はフロイドだけども、『ザ・スタンド』のふられ役はハロルドだったかと。
この辺りは、ただの偶然かな。それとも何か理由があるのだろうか。キングは言葉遊びが好きな人のようでもあるし、やっぱりこれには何か深い理由がありそうだ。〈了〉
この辺りは、ただの偶然かな。それとも何か理由があるのだろうか。キングは言葉遊びが好きな人のようでもあるし、やっぱりこれには何か深い理由がありそうだ。〈了〉