本を読んでいると、ざっと読んでそれっきりになる本もあれば、折に触れて読み返したくなる本もある。
 
その理由は何だろうと考えてみると、以前はその内容を確認したいということが第一だったけれども、最近はその雰囲気をもう一度味わいたいということが多くなっているようだ。
 
学び考えるための読書から、味わい楽しむ読書に変わってきたということだろうか。
 
ちなみに、自分が好きな文章を挙げるとすれば…夏目漱石の「三四郎」はバランスが良くて好きではある。「門」「道草」「硝子戸の中」などの、寂しい心持ちのする文章もいい。あと漱石は、岩波の漱石全集がすきかな。
 
谷崎潤一郎の「細雪」は、毎晩、就寝前に少しずつ読むのに丁度よい本だった。最近の作家であれば、西村賢太の文章はおもしろい。その語り口は、真似しないではいられない魅力がある。カタカナの使い方とか、「根がどこまでも…にできている」とか。
 
江國香織の「ホリー・ガーデン」、岩瀬城子の「もうちょっとだけ子どもでいよう」「「うそじゃないよ」と谷川くんはいった」などは、ストーリーや背景の倫理観は自分には合わないけれども、文体とか雰囲気は好きではある。
 
松本侑子の「植物性恋愛」と「美しい雲の国」は、文体は正反対というくらいに異なっているけれども、どちらもいい。松浦理英子のかっちりした文章も好み。屈折してて理屈っぽいキャラもいい。純文学にありがちな、わざとらしい屈折ではなくて、必然性も思惟もある屈折だと思う。
 
最近はあまり読まないけど、司馬遼太郎の文章もすきではある。伊藤痴遊の講談調の文章もおもしろい。講談調だとつくりものっぽくなりそうなものだけども、案外に幕末明治の志士たちとの距離は近く感じるのだから不思議である。
 
翻訳だと、新潮文庫の「マルテの手記」は時々無性に読みたくなる。プラトンの対話篇の「~してくれたまえ」みたいなのもすきだが、ちびまる子ちゃんを見てからは、花輪君とイメージが重なって困る(笑)。
 
今思い出せるのは大体これくらいだけども、いやはや一口に文体といっても、本当にいろいろあるなあと思う。独自の文体を生み出す作家もすごいけれども、それを可能とする日本語もすごいのかもしれない。どちらにしても本好きにとってはありがたいことである。〈了〉