『カラマーゾフの兄弟』を読んでいて、印象に残った箇所と感想をメモしておきたいと思う。メモしとかないと、すぐ忘れちゃうので。

まずは、この文章。↓
アリョーシャは、「一緒に過ごして一部始終を見ながら、なにひとつとがめだてしなかった」ことで、彼の「心臓をぐさりとつらぬいた」。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.249)
物語の語り手によれば、アリョーシャは、父フョードルの醜悪な振る舞いを目の当たりにしても、まったく裁くことはなく、それゆえに父フョードルに強い影響を与えたということらしい。

さらにアリョーシャは、フョードルを軽蔑することなく、「つねに変わらぬ優しさと、心からごく自然にあふれ出る愛着を寄せ」たとのことである。

この部分は何となしに、良寛和尚の話を思い起こさせる。良寛和尚は、さる人から放蕩三昧の息子に意見してほしいと頼まれ、その子と会うが、終始無言で通し、ただ涙をこぼしたという話。

こういう話を読むと、人の心に寄り添うことの大切さをつくづく思い知らされる。人の身になって考え、理解することの方が、人を裁き批判するよりも、結局は相手のためにも、自分のためにもよいことなのかなと。

もっとも、人生問題に関しては、いつでもどこでも誰にでも常にこれが正しいというものはないだろうから、人を裁き批判することが必要となる場合もあるかもしれないが…。

ただそれでもやっぱり基本は、人の身になって考え、理解しようという姿勢が大事であることは変わりないのだろうとは思う。
アリョーシャという人間は、何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していたのではないか――もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあったが――とさえ思える。それどころか、だれかに驚かされたり動揺させられることもなかったほどで、こうした性格はごく若い頃から変わらなかった。
(同上、p.46)
ここではアリョーシャについて、二つのことが分かるように思う。まず一つは、アリョーシャが人を裁かなかったのは、本人の意思によるものだったということ。

たとえ悲嘆に暮れることになっても、人を裁かない姿勢を貫いたというのであれば、そこには強い意志が介在していたということなのだろう。またこれについては前段において、語り手はもっとはっきりとした形で、アリョーシャには「自分は人々を裁くようなことはしたくない」「何があっても人を責めたりはしない」という思いがあったと書いている。

もう一つ分かることは、このようなアリョーシャの性格は、小さい頃からのもので、ほとんど先天的なものらしいということ。

「人は変われるか、変われないか?」ということは、いろいろと議論はあるけど、アリョーシャの場合はどうやら幼い頃から変わってないという設定らしい。

人は変われるか? 変われないか?
人のどの部分は変えられて、どの部分は変えられないか?

この辺りはややこしい問題だけども、個人的な願望としては、裁き癖は変えられる部分であってほしいものだなあとは思う。