*悔いと赦しと歎異抄
引き続き、『カラマーゾフの兄弟』の感想を書いてみる。
あなたのなかで悔いの念が涸れることさえなければ、神さまは何もかも赦してくださいます。そう、この地上には、真剣に悔いあらためているものを神さまがお赦しにならないほどの罪などありませんし、あるはずもないのです。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.134)
悔い改めによって赦されるという話はよく聞くけれども、その後の文章は、歎異抄の一節を思わせるものがある。
ですから、本願を信じるものには、念仏以外のどんな善もいりません。念仏よりもすぐれた善はないからです。また、どんな悪も恐れることはありません。阿弥陀仏の本願をさまたげるほどの悪はないからです。
「神さまがお赦しにならないほどの罪などありませんし、あるはずもないのです」
「どんな悪も恐れることはありません。阿弥陀仏の本願をさまたげるほどの悪はないからです」

神様や阿弥陀様の愛と慈悲をさまたげるほどの罪悪などはないというのは、本当によく似てる。神の霊感は、東西の隔てなく、世界に行き渡っており、どちらもその霊感をとらえたということだろうか。それとも人はみんな脳のつくりは同じだろうし、それなら同じような発想をするのも当然ということだろうか。

どういう理由かは分からないが、時代も地域も大きく異なる人々が、同じようなことを考えていたというのは面白いことではある。


*棄教と赦し
というわけで、ぼくも期待しているのです。一度は神さまを疑った身でも、後悔の涙を流しさえすれば許していただけるだろうってね
(同上、p.350)
これは悪全般の話ではなくて、棄教についての議論の流れでの台詞である。スメルジャコフは、もしも自分が、キリスト教徒に対する迫害を恐れて棄教したとしても、神はゆるしてくださるだろうと言っている。神様の無限のゆるしについて、こういうまぜっかえしをする人がいるのは、東西どこでも同じかな。
あなたの信仰がたとえ麦粒みたいにちっぽけでも、山に向かって海へ入れと命じたら、あなたの最初の一声で山は少しもためらわずに海に入っていくだろうってね。どうです、グリゴーリーさん、かりにぼくが不信心者で、あなたがひっきりなしにぼくを罵倒できるぐらい立派なキリスト教徒でおありなら、ためしにご自分であの山に言ってみるといいんです。
(同上、p.349)
これもスメルジャコフの発言だけども、キリスト教徒として迫害されるとき、もし自分に信仰が少しでもあるなら、この山動きて海に入れと命じればその通りになり、その山によって迫害者らを押しつぶし、意気揚々と国に戻れるだろう。

でももし山が動かないなら、自分の信仰は少しも神に認められていないということであり、それなら神に認められていない信仰のために拷問を受けて何になろう? そういう場合はただただ拷問が怖ろしいあまりに正気を失い棄教をしたとしても、そういう心神喪失状態における行いについて、慈悲深い神が決してゆるさないなんてことはないだろうということらしい。

なんといったらいいか、スメルジャコフの意見は汚らしい感じがしてたまらない。それに屁理屈を重ねているだけのようにも思える。こういう主張をみると、信仰は理屈以上に実感が大事なのだろうし、論理だけではないのだなということがよく分かる。信仰について論理で語ろうとする議論は、不毛なものになりがちだけど、その原因はこの辺りにあるのかも。

それはそうと、上記の部分は「麦粒」ではなく、「からし種一粒」ではなかろうか。
もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。
(新共同訳、マタイ17:20)
訳者は、現代の読者に分かりやすい訳文を意図したそうだから、からし種は分かり難いから麦粒に変えたということだろうか。真相は分からないが、もしそうだとすれば、からし種というのはもはや慣例表現のようなものだろうし、わざわざ変えずに、そのままでもよかったのではないかとも思える。