*宗教と道徳
前記事に引き続き、『カラマーゾフの兄弟』の感想を書いてみる。
なにしろ、もしも今キリストの教会がないとしたら、どんな罪人も悪事の歯止めがきかなくなり、あとでその罪人に加えられる罰すらなくなってしまいます。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.167)
宗教と道徳との関連については、新渡戸稲造の「武士道」でも触れられているけれども、宗教なしには道徳は教えられないという発想は、率直にいって自分にはどうもよく分からない。

子供だった頃を思い出すと、悪いことをしたら地獄に堕ちる、嘘をついたら鬼に舌を抜かれる、誰も見てなくても神様は見てるなどの話を聞かされたことはあったし、それを恐れもした。

でもこういう話が、自分の行動に実際に影響力を持ちえたかという点については少々疑問は残る。影響はなかったというわけではなかろうけれども、それよりは、悪いことをしたら人に迷惑をかけることになるとか、後でバレたら恥ずかしいとか、良心の呵責とか、そういったことの方が、自分に対する影響は大きかったように思える。

だから自分としては、道徳を教えるには、人に迷惑をかけるな、恥ずかしいことはするな、良心にもとる行いはするなというだけで十分であって、いちいち天国、地獄などの物語を持ち出す必要はないように思えるのである。時にはそういう話がいることもあるかもしれないが、それでもそれを中軸に据えなくてはならぬとはならないだろう。

もうずうっと前に見た朝生で、景山民夫が宗教の大切さをうったえるのに、信仰とゴミ拾いの話をしたのに対して、池田晶子はゴミを拾うのに神様は必要ですかと問いかけていたと記憶しているけれども、これは確かにその通りと思う。


*宗教と愛
全地上には自分と同類の人間を愛することを強いるようなものは何ひとつ断じてない。人間が人類を愛するような自然界の掟はまったく存在しない。若しもこの地上に愛があり、これまであったとするなら、それは自然の掟から出たものではなく、ひとえに人々がみずからの不死を信じてきたからだ、と。
[省略]
だから、人類から不死に対する信仰を根絶やしてしまえば、たんに愛ばかりか、この世の生活を続けていくためのあらゆる生命力もたちまちのうちに涸れはててしまう、と。それだけじゃありません。そのときには、もう不道徳もなにも何ひとつなくなって、すべては許される、人喰いだって許されるというのです。
(同上、p.181)
人は宗教によってこそ、愛をいだき、道徳的に生きられるという考え方からすれば、このように結論づけるのはある意味当然かもしれない。

でも人が持っている愛も、道徳も、宗教に由来するものではなく、人が進化の過程で獲得した本能のようなものであるとすれば、その限りではなくなるのではなかろうか。

ちなみに、宗教は持たず、不死を信じているわけでもないだろう動物たちが、愛をいだき、道徳的な行動をしているかのように見えることは、そう珍しいことではないらしい。

『動物たちの心の科学』マーク・ベコフ著、高橋洋訳 (青土社) - 楽山日記
『人間機械論』ド・ラ・メトリ著、杉捷夫訳 (岩波文庫) - 楽山日記

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これらのエピソードの真偽は分からないが、いかにもありそうな話ではあるし、この手の事例が山ほどあることからすれば、愛や道徳は、信仰を持つ人の特権というわけではなさそうではある。

こういった点から考えてみれば、宗教を信じていようが信じていまいが、愛が深い人もいればそうでない人もいるのであろうし、宗教を信じなければ、または不死を信じなければ、愛も道徳も失われてしまうというのは極論であって事実であるとは言い難いのではないかと思う。