*教祖崇拝、グルイズムについて
『カラマーゾフの兄弟』で、長老について次のような記述があった。
人は、いったん長老を選んだなら、自分の意思を断ち、それを長老にささげ、その教えに絶対的にしたがい、私心をいっさい捨て去らなくてはならない。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.69)
この後は、長老に対する「生涯にわたる服従をとおして、最終的には完全な自由、すなわち自分自身からの自由を獲得」するという記述が続いている。

またもし長老から課された責務を怠っていたならば、たとえどのような善行を積んだとしてもそれらは少しも認められないともいう。

こういう制度は、理論によってではなく、長年の経験によって構築されたということであれば、現代の考え方によってあれこれ言ってみても詮無いことかもしれないが、それでもやっぱりあまりにも極端すぎるように思えてならない。

ただこういう制度の話を知ると、これとは全然ちがうことかもしれないが、なんとなしに、アングリマーラの逸話を思い出す。
ある日、師匠が王の招きにより留守だったが、師の妻がアヒンサに邪に恋慕し誘惑した。しかしアヒンサはこれに応じず断ると、その妻は自らの衣を破り裂き、悲相を装い師の帰りを待って「アヒンサに乱暴された」と偽って訴えた。之を聞いた師は怒り、アヒンサに(一説には術をかけたともいわれるが)、剣を渡して「明日より、通りで出逢った人を順に殺して、その指を切り取り鬘(首飾り)を作り、100人(あるいは1000人)の指が集まったとき、お前の修行は完成する」と命じた。彼は悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていった。これにより彼はアングリマーラ(指鬘)と呼ばれ恐れられた。なお、この頃の彼を指鬘外道(しまんげどう)と呼ぶことがある。
この話を聞くたびに、なぜアングリマーラは師のおかしな命令に従ったのだろうと疑問だったが、もしこの背景に上で述べた長老制のような考え方があったなら、アングリマーラには師の命令に従わないという選択肢はなかったのかもしれない。

個人崇拝はよくないということは誰もが知っているはずのことではある。またマインドコントロールが問題だということも誰もが知っていることである。

でもそれであっても、教祖を絶対視して崇拝するカルト宗教はなくならない。生き神様崇拝だとか、グルイズムは危険だと周知されているはずなのに、それらはなかなかなくならない。

またスピリチュアルなことに関心がある人の中には、内なる神を信じると称して、自己を絶対的な教祖として崇拝しているかのような人もいる。これも広い意味では、個人崇拝と言えるかもしれない。

この辺りのことは宗教、精神世界に関心がある自分は、常々、気をつけなければいけないなと思う。他人のことも自分のこともも絶対視することなく居続けたいものである。


*追記
「大審問官」で、次のような箇所があった。
自由の身となった人間にとって、ひざまずくべき相手を少しでも早く探しだそうとするすることぐらい、たえまない心労はない。しかし人間というものは、ひざまずくべき相手を常に求めている。
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.271)
たしかに人間にはそういう面はあるかもしれない。少なくとも自分のなかには、拠り所となる権威を求める気持ちはあるかな。

誰もが正しいと認める権威、「これは正しい」と安心して信じられる権威、そういった権威の側にいたいという気持ちはなくもない。

我ながら、ここは注意しないといけないなと思う。