『カラマーゾフの兄弟』のなかで、イワンとアリョーシャの会話はすごく興味深いのだけれども、ここはちょっと難しかった。
おれはいま、何もわかりたくないんだ。おれはただ事実ってものに寄り添っていたいんだ。だいぶまえに、おれは、理解しないって決めたんだよ。もしなにかを理解しようと思ったら、とたんに事実を裏切ることになるからな、事実に寄り添っていることに決めたのさ……
『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、pp.241-242)
これは悲惨な事件の例をいくつも述べた後のイワンの言葉ではあるが、そういった事について、それに何らかの意味づけをすることなく、その事だけを見ていたいということなのだろうか。

ちなみに、『心霊電流』(スティーヴン・キング著)の登場人物である牧師は、妻子を悲惨な事故によって失ったあとで、信仰をも失い、それを公然と語るのだが、それを聞いた別の登場人物は次のように批評していた。
師はひとつだけ正しいことを言った。人生でひどいことが起こったとき、人々は必ず理由を求める。理由がない場合でも 
(『心霊電流 上』スティーヴン・キング著、峯村利哉訳、文藝春秋、2019年、p.104)
これはその通りのように思える。少なくとも自分のことをかえりみれば、一つの出来事について、それが自分にとって大きな出来事であればあるほどに、「これは××のためだったにちがいない」というような理由付けをしないではいられなくなる傾向はある。また他の人がそういうことを言っているのを聞いたことも一度や二度ではない。

イワンが言いたいのは、こういう理由付け、意味づけをすることなく、事実だけを見ていたいということなのだろうか。もしそうであれば、これには自分も共感できそうだ。ただそうはいっても、事実だけを見て、解釈、意味づけ、理由付けなどを施さないというのは、言うは易し行うは難しであって、かなり難しそうではあるけど…。