*照れなくてもよい?
人は悪いことをしたときはもちろん、善いことをしたときも恥ずかしくなったりするけど、これは一体どうしてなんだろうと思う。
未熟な俗世の人間というのは、ごくごく正当な自分のふるまいさえ、そんなふうに恥ずかしく思いがちである。
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.403)
これは、ゾシマ長老の言葉だそうだけども、本当にその通りだと思う。善いことをしたことを、他人に知られるのは恥ずかしいし、おおっぴらに褒められでもしたら、それこそ穴があったら入りたいくらいに恥ずかしくなり、どうか知らんふりして放っておいてくださいという気持ちになったりする。

本来なら、「褒めてくれてありがとう。よし今度はもっと善いことをしよう」という風に、さらりとした気分でいるのが理想なんだろうけど、これはなかなか…。


*滑稽でもよい
次の言葉は、アリョーシャが少年に向けて言ったものだけど、これも全くその通りのように思える。
滑稽がなんです? 滑稽な目にあうことなんてざらですし、滑稽に見える人だって、それこそ山ほどいるでしょう? おまけに、いま能力のあるほとんどすべての人が、滑稽になるのをひどく恐れて、そのためにかえって不幸になっているんですよ。 
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.130)
人間はしばしば、善良で立派なものをあざ笑いますから。でもそれは、浅はかさから生まれるものなんです。けれども、みなさん、ぼくはきみたちに保証します。思わずにやりとしたにしても、心はすぐにこう語りかけてくるでしょう。『いいや、笑ったりして悪いことをした、だって笑ってはいけないことなんだもの!』ってね
(『カラマーゾフの兄弟5 エピローグ別巻』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.59)
世の中には、「善良で立派なもの」を嘲笑する風潮は確かにある。一生懸命に頑張ってる人をわらいものにするとか…。

また、せっかく善いことを思いついても、人目を気にして、それを実行できない人も少なくなさそう。この辺りのことは、自分も気をつけるようにせねば…。