*悪魔が、人を惑わせる方法
今回、『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて、一番ドキッとした箇所はどこだったろうと考えてみると、悪魔がイワンに放った台詞だった。
ぼくはきっと、信仰と不信のあいだを連れまわしてあげますよ。ぼくの目的はそこにあるわけですからね。新しい手法を用いるんです。だって、きみはぼくの存在をまったく信じなくなったかと思うと、すぐにまた、ぼくが夢じゃなくてれっきとした実在だと、面と向かってぼくに信じ込ませようとする。ぼくはきみのことがちゃんとわかってるんです。そこで、ぼくの目的は達せられるというわけです。最近の自分は、たぶん、不可知論という立場なんだろうけれども、そのなかでも、有神論に傾いたり、無神論に傾いたりしている。(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、pp.382-383)
以前、ネット上で知り合ったある人は、自分の立場を説明するのに、不可知論者ではあるが、神はおそらくは存在しないだろうという無神論寄りの不可知論者だと言ってたけど、どうも自分の場合は無神論寄りと有神論寄りの不可知論を行ったり来たりしているらしい。
この点において、上の悪魔の台詞にのっかっていうならば、自分は悪魔によって信仰と不信のあいだを連れまわされているということになるかもしれない。怖ろしい。
ただどういうわけか、自分の場合はかなり無神論寄りになっているときでも、心の底では神様を信じている感じがあるから不思議ではある。仮に、「神はいない!」と言ったとしても、心の底ではそんなことを言っている自分のことを神様が見ているという感覚がある。
また無神論に共感しているときに、何となしに神様から「お前は無神論を勉強し、無神論者の気持ちを理解できるようになりなさい。それができるようになったら、また呼び戻すから、その時まで無神論寄りでいなさい」と背中を押されている心持ちがしたりもするのだからおかしい。
こういうことは、一般目線から見れば「ただの妄想」ということになるのだろうし、宗教的に見れば「悪魔が神のふりをしている。悪魔に騙されている」ということになるのかもしれない。はたまた「自己正当化のためのエゴイストらしい屁理屈だ」という分析も有り得るかもしれない。
まあどれが正解かは分からないが、こういう感覚というものは自分の意思ではどうにも変えようがないし、無視することもできないのだから、ここはそういう感覚に正直でいるしかなかろうとは思う。
ただそれはそれとして、これまでの経験から考えると、信仰と不信のあいだに揺れ動くというのは、時間の無駄に思えてならない。神はあるかないかという、この世では解決できるわけもない問題の答えを求めてさまよっても仕方ない。
最近はようやくこの問題をいくら追っても徒労に終わるしかないことを受け入れることができるようになってきたので、ここはよかったと思う。自分はどうも「これこそが正しい」というような考え方は苦手のようであるし、仮に特定の思想宗教に凝ることがあっても、じきにその思想宗教が窮屈になって、狭い棺桶に閉じ込められて地中深く埋められている気分に陥り、何が何でも外に出たくなってしまう。
人付き合いは距離感が大事だというけれども、自分にとっては思想宗教もこれと同じであって、そういうものとは適切な距離をとって、何事も決めつけることなく、ある程度の余裕を持った生き方が性に合ってるらしい。