*因果応報?
これは、『カラマーゾフの兄弟』の裁判シーンにある言葉だけども、こんなことを言われたらドキッとしないではいられない言葉ではある。
『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』これはわたしの言葉ではなく、マタイ福音書に書かれた教えです。あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです。  
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.648)
ずいぶん前に、ロニー・ジェイムズ・ディオのインタビューで、「自分がしたことは、まわりまわって自分に返ってくる」という話が出ていたのを今でも覚えているが、こういう因果応報的な考え方は何となしにリアルに感じるし、怖ろしくもある。

自分が何かしようとしたときに、それがやがて自分に返ってくるのを想像してゾッとしてしまうとか。

自分の身に面白くないことがあったときに、自分の過去をよくよく振り返ってみると、そういうことが自分の身に起きても仕方がないと思えるようなことを自分はしていたなあとか。

こういう感覚は、「そんなものは迷信だ。妄想だ」と自分に言い聞かせてみても、さっぱりうまく行かないのだからやっかいである。

結局のところ、この手の強迫観念から解放されるには、人のことをむやみに批判し、傷付けないようにするしかないのだろうと思う。巷には正当な批判というものもあるだろうし、そういうことに抵抗感を持たない人もいるだろうけれども、自分はどうもその方面には向いてないらしい。


*短気は損
次の言葉は、思わず「その通り」と膝を打ちたくなるような言葉である。
「ジュピターよ、君は怒った、とすると君は正しくないのだ」という一句を引用した。これは傍聴席に無数の好意的な笑いをひきおこした。 
(同上、p.664)
一口に「怒った」と言っても、そのなかには急所を突かれたゆえの逆ギレ、逆上もあれば、不正に対する義憤、正当な怒りというものもあるだろう。

でもどういう怒りであれ、いったん怒ってしまうと、理性的な判断はできにくくなるというのは本当のように思われる。

特に、傍から見ていて、取るに足りないほど些細なことに対して、大激怒するほどの短気を起こした場合は、その傾向は強まりそう。

自分もけっこう短気なところはあるので、ここは気をつけなければ…。まともな判断能力は失いたくないし、もし短気を起こせば、次には短気を起こされる側になって難渋することになりそうでもあるので。