*まえおき
最近は、自分がHS(幸福の科学)にハマった頃にどういう考え方をしていたのかを振り返り、まとめておきたい気がしていたのだが、藤倉善郎さんの記事を読んだら、その気持ちはさらに強くなってきた。

アルゴラブさんの記事も上の気持ちを強くさせるものがある。

というわけで、HSにハマった頃の自分の考え方というか、思考回路というか、その辺のことを思い出しつつ書いてみたいと思う。なかにはすでに記事にしたネタもあるかもしれないけれども、重複は気にせずに心に浮かんだことを書いてみるつもり。
あとは、ついでに現在の見解も書いて、会員時代の考え方と対比させておこうと思う。


*霊好き
恥ずかしながら、自分は子供の時から、心霊的なことについて興味を持っていた。たとえば夏休み中は、「あなたの知らない世界」を楽しみにしていたクチである。
番組の内容で、今でも覚えているものといえば、夫と死別した女性が、再婚したらまた夫を亡くしてしまい、二人の元夫の遺影を一つの仏壇においていたら、あの世で二人の夫が喧嘩をしたという話だ。喧嘩に負けた方の遺影が、仏壇から追い出されるように、転がり落ちる場面はインパクトがあった。
もう一つは、体験者は若かった頃に不幸に耐え切れず、入水自殺を試みるも、先に亡くなっていた実母の霊に止められて、そのおかげで今は幸福に暮らしているという話。
たしか、「あなたの知らない世界」は、前半は祟りものの怖いエピソードを放送し、最後はこういう心温まるいい話で締めることが多かったように思う。
あと、新倉イワオの解説もおもしろかった記憶がある。細かいことは忘れてしまったけれども、おどろおどろしい話ではなく、人の心を汲んでいてよく納得できる解説だった。
HSでは、霊的なことばかりに興味を持ってはいけない、心の教えを学び実践することが本道であるという考え方があるけど、実際には霊がどうしたこうしたという話がてんこ盛りであるし、この点を考えれば霊好きの自分がHSにハマるのもある意味必然だったように思える。実際、HSには霊好きの人たちがわんさかいるしね。
ただ現在の自分はどうかと言えば、霊的なことに対する興味は薄れていて、心霊番組があっても見ることはなくなった。仮に見ても十分も見続けていられない。自分で言うのもなんだけど、この点については大分、改善できたとは思う。でもそれでも普通の人と比較した場合は、まだまだ霊好きの方なんだろうけど。


*霊的真相
上に関連したことだけども、HSの会員時代は、霊的真相にはすごく関心を持っていたのだった。この世において何らかの出来事があった場合、その背景にはどのような霊的な問題が隠されているのかとか、そういうやつである。当時の話題でいえば、ゴルバチョフはどういう人物なのか、その霊格と過去世はいかなるものかとか、湾岸戦争の霊的な背景、フセインの霊格、過去世だとか、そういう話。
あとは、「いま、ついに明かされる天上界の秘密!」というフレーズには弱かったのだった。こういうことに対する興味関心を押さえるのは難しかった。
今はどうかといえば、さすがにその手のことには興味は無くなった。最近のHSはプーチンやトランプの霊的な出自や、過去世、政治判断の霊的真相がどうこう言ってるようだけども、さほど興味はわかない。近頃は「真実のエクソシスト」という本が出たというけど、それにも興味はわかない。相変わらずだなあと思うくらいかな。前だったら内容を確認して、ツッコミどころを見つけて批判しとこうと思ったりもしたけど、最近はそういう意欲も減退気味ではある。


*ムー
自分は、霊に限らず、ムー的なことは大体、信じていたのだった。もう少し具体的に書くと、心霊現象、霊能力、超能力、奇跡、謎の生物、世界の七不思議、超古代文明、UFO、宇宙人、生まれ変わり、霊界…こういうことは大方信じていた。
もちろん、それらのなかには、嘘やデタラメもあるとは思ってはいた。でもだからといって全てが嘘でありデタラメであるとは思わず、本物もまじっていると信じていた。「巷の霊能者は多くが偽物だけども、本物もいるんだ」といった具合である。HSにハマった頃は、そんな考え方をしていたのだった。
でも現在は こういった類のことはスピリチュアルエンターテイメントであり、トンデモであるのだから、娯楽として楽しむのはいいとしても、真面目に受け取ったり、真剣に議論する対象にはならないと思うようになってる。


*マリックさん
ここでふと思い出したのだが、当時の私は、マリックさんの超魔術は本物だと信じていたのだった。「手品なんかであれほどすごいことができるはずもない。これは本物にちがいない」と。
でも特番で、マリックさんが他の手品師に追い詰められて冷や汗をかいているのを見て、遅ればせながらもマリックさんがやってるのは超能力や魔術ではなくて、タネも仕掛けもある手品らしいと気付いたのだった。
そんなわけで今はといえば、すごい手品がたくさんあることは分かったので、超能力でスプーンを曲げるとか、ものを触らずに動かすとか、当てものをするだとかはくだらんと思うようになった。手品でできることについて、超能力がどうだこうだと議論したって仕方がない。
余談ながら、いつぞやは徹子の部屋でマリックさんの名前が出てたことがあった。空中浮揚をする外国人マジシャンがゲストのときに、黒柳徹子は、「日本の有名なマジシャンのマリックさんに、あなたの空中浮揚の仕掛けはどうなってるんでしょうと問うたら、マリックさんは『彼のことだから本当に浮いているかもしれません』と言ってました」といい、それを聞いた外国人マジシャンは、「マリックさんという方は素晴らしい方だ」とニッコリしてたのだった。(注 かぎかっこ内の言葉は、自分の記憶で書いてるので本人の言葉通りではありません)
自分はこの会話を聞いて、これがマジシャンのマナーというやつかな、この人もマリックさんもマジシャンのマナーを守ってるんだなと思いつつ、マリックさんを追い詰めた手品師は嫌な奴だと思ったのだった。マリックさんの成功を妬んでチャチャ入れてきたんだろうなと。
交霊会批判の本には、霊媒師の信者は、霊媒師のイカサマが暴かれたときに、イカサマをした霊媒師でなくて、イカサマを暴いたヤツに腹を立てることがあると書いてたけど、まさに当時の自分もこのパターンに陥っていたらしい(笑)。


*物事の意味を考えたい人
HSにハマる前は、何かの意味とか、目的とか、そんなことは考えたことも無かったように思う。仮に考えたとしても、「彼女とは赤い糸で結ばれているにちがいない。彼女と出会うのは運命だった」と妄想するくらいだったと思う。
でも、HSにハマってからは、些細なことにも意味を見出し、いろいろと理由付けするようになった。たとえば、いつだったか教祖ORの講演会に行く途中で、虹を見たことがあったが、その時は当然ながら、その意味を考えたのだった。「この虹は天上界からのメッセージだ。天上界は、ORの講演会に行くことを祝福してくれているんだ」と。
今にして思えば、虹が出たのは偶然だろうし、もし仮に虹は出なくて悪天候に見舞われたなら、悪霊悪魔が邪魔しているとか、天上界から信仰を試されているという風に受け止めたのだろうなあと想像する。要するに、どういう風に意味づけをするにしても、ORの講演会に行くことはものすごく価値があるという結論は同じということ。
ここからすると、物事に意味や目的を見出すということは、それ自体は妄想にすぎないのだろうけれども、その内容を検討すれば自分が何に価値をおき、執着しているかを知ることができるし、この点においては結構、役に立つことかもしれない。
今はもう以前のようになんにでも意味を見出したがることはなくなったけど、変な夢を見たときはその意味を考え込んでしまうことはあるので、こういう性質は会員時代ほどではないにしても、今も続いているようではある。ただそういうことを考えてしまった時には、これは妄想だなとブレーキはかけられるようなので、そこは当時よりはかなりましである。
宗教全般に言えることかどうかは分からないけれども、とりあえず自分にとってのHSは、関係妄想みたいな癖をつけさせるものであって、この点はすごく害があったように思う。
本人にとってはまったく関係のない,周囲の人々の動作や見聞きした出来事を,自分に対してある意味や関係があると強く思い込む妄想。最も多くみられる妄想の一つ。統合失調症にみられる。


*HSの物語
HSには、ORは救世主であり、会員はORの下に集い、救世活動に邁進することを誓って生まれてきたという物語がある。当時の言い方であれば、「天上界での誓いを忘れるな」「集え、光の天使」というアレである。
もう少し詳しく書けば、人生の目的と使命は、ORの下に集い、その教えを学び、自らの心を磨き、より多くの人々にこの教えを伝え、HSに導き、救うことにあるという考え方であり、換言すれば上求菩提、下化衆生というやつである。
近年のHS映画でも、「使命を思い出せ!」「使命を忘れるな!」というようなメッセージは強く打ち出されているし、こういう傾向は昔も今もさほど変わっていないようだ。
要は、こういう物語によって、信者にやる気を持たせ、頑張らせるわけである。デールカーネギーの「人を動かす」には、相手に重要感を持たせるという項目があったと思うが、要はこれである。もっと露骨に言えば、猿(豚)もおだてりゃ木に登るというやつ。
人生の目的と使命とか、物事の意味とか、さほど考えなかった自分が、会員になってからそういうことをよく考えるようになった背景には、こういう物語の中にどっぷりつかっていたということが影響していたようである。
ちなみに今は、こういう物語には全然リアリティは感じないし、信じなくなっている。その理由はと言えば、自分は、自分の存在価値を見出すために、こういう物語を必要としていないからだろうと思う。
林道義の子育て論では、乳幼児期に親から十分な愛情を受けることによって、自分は愛される価値があるという自己肯定感が得られ、長じてからも適切な自尊心を保ち、心は安定し、自分に自信を持てるようになるとしていたかと思うけど、多分、自分が上のような物語を必要としないのも、親の愛情のおかげなのかなという感じはする。
ついでに言うと、信者から退転者と蔑まれても、議論の際に酷い人格攻撃を受けても、人前で恥ずかしい失敗をしても、さほど堪えないのはこれがためなのだろうとは思う。


*個人崇拝
個人崇拝というか、特定の個人に傾倒する癖は、子供のころからあったように思う。幼年期であれば、仮面ライダーが好きだったけど、これはある意味個人崇拝の域に達していたかも…。キカイダー、バロムワンとかもそうかな。
もう少し大きくなってからだと、ルパン三世とか、シャアとか、ブラックジャックにも、そんな感じになっていた。藤子不二雄のこともものすごく尊敬してた。
思春期になると、マイケル・シェンカー、リッチー・ブラックモアなどのギターヒーローが崇拝対象になってた。インタビュー記事を何度も読み、その価値観を知り、感動してたのだった。
こうしてみると、思想哲学に興味を持つ年頃になったときに、宗教にハマり、教祖崇拝に陥るというのはある意味必然だったかもしれない。まさに自業自得。
ただし近年は、ネットが行き渡ったことで、どんな権威も批判はのがれられないし、こういう状況ではいかな自分のように崇拝癖のある人間であっても、誰かを理想化して崇拝するのは無理というものである。


*ロックと宗教
余談ながら、ロックと宗教というのは、パッと見た感じでは正反対のようでありながらも、実際には結構近いものがあるように思う。
たとえば、ロックは生き様であり、美意識でもあるので、人はいかに生きるべきかを教える宗教と通ずるところはある。
またロックは反体制であり、権威を嫌うもののようでありながらも、実際にはロックスターという権威の前には従順だったりする。だからロックスターとファンとの関係は、教祖と信者の関係とそっくりになったりする。
ロックファンが宗教に凝ることがあるけど、この見方からすると、それはそれほど奇異なことでもないように思う。


*答えを求めていた
OR本に感動した理由の一つに、「すべての答えが書かれている!」ということがあった。当時の自分には、OR本には、この世界の成り立ち、死んだらどうなる、宇宙は有限か無限か、霊とは何か、本当の幸福、不幸の原因、どうしたら幸福になるのか、どうしたらユートピアは実現するのか等々、すべての問いの答えが提示されているように見えていた。
講演会における質疑応答でも、ORはどんな質問に対しても当意即妙な答えをしているようで、「この人には答えられない問いなんてないんじゃないか」と思ったのだった。
要は、会員だった頃は、「どんな質問にも答えることができるのはスゴイ。普通は答えられないような問いにも答えるのはスゴイ。誰にも分からないことでも、分かっているのはスゴイ」という考え方をしていた。そしてこの後は、こういうことができるORは並の人ではない、人を超えた存在ではないかという発想に行きついたわけである。
でも現在はどうかといえば、こんな考え方をしている。「巷には答えを出せない問題がある、答えを出せない問題に、無理に答えを出す必要はない。分からないことは分からないとするのがよい。分からないことは分からないということを受け入れられないと、何でも分かってるふりをする嘘つきに騙される危険性が増す」


*人間の可能性、区分
会員だった頃は、人間の可能性を信じていた。人は神の子であって、心の内奥には神性が秘められていて、これを顕在化させることで、神と一体となり、不可能なことは無くなるという考え方である。
また心が純化され、神性がどれだけ顕在化されているかによって、霊的な認識力に高低差が生じるとも考えていた。ORとHSの価値は、霊的な認識力が高ければ分かるが、低ければ分からないのであって、これが分かる者は上根で、分からない者は下根なのだと。
でも今は、神の子だとか、霊的な認識力だとかは、さほどリアルに感じなくなっている。一つの思想としては理解できるが、それが現実かといえばちょっと微妙だ。OR、HSの価値云々という点についてはまったくリアリティはない。あしからず。


*正義
正義に関しては、元々それほど強くは考えない方だった気はする。勧善懲悪タイプのマンガやドラマならともかく、現実に甲と乙が対立している場合は、自分には甲が正しいと思われるということはあっても、高所から「正義は甲にある!」という発想はあまりしなかったと思う。
でもHSの会員になった頃は、正邪善悪にうるさくなってた。あからさまに「正義は我にあり!」と言うことはしなかったし、それをケロリと言ってのける輩とは距離をおいてたけど、そういう思いが自分には全然なかったといえばウソになる。会員だった頃は、物事を単純化して黒白をハッキリつけたがる傾向は間違いなく強まってた。
ただこの辺りのことは、自分の本来の性質とは合わないようで、結局はあまり長くは維持できなかった。特定の宗教や思想に凝り固まって、それによって他をバッサリ裁くというのは、やはり性に合わない。自分の本来の性質としては、細かく見た場合は、あっちにも一理あるし、こっちにも一理あるとしてしまうし、大局的に見た場合でも、自分にはこちらが正しく思われるとか、好ましく思われるというように自分の感覚を語るくらいで、自らを神の位置においてこちらが正義であっちが悪であるとスッパリ決めつけるのは好きではない。
そんなわけで、最近は「義人なし、一人だになし」という言葉の影響もあってか、ますます自分はもちろん他の誰に対しても正義であるとは思わなくなってきている。


*理想主義者
自分は、元々、人に関しては性善説的な考え方をしていたように思う。人は誰でも良心を持ってて、間違って悪いことをしたときは良心の呵責を感じるものであって、常々、善く生きることを願っているものであると。HSの会員になったころは、人は神の子であって、本来的には善であると信じていたので、この傾向はより一層強まってたと思う。
でも今はどうかといえば、巷には、サイコパスとか、平気でうそをつく人もいるらしいことは分かってきた。誰でも一定水準と倫理道徳を持ってると期待することはできないものらしいと。
ただそうはいっても、根はどこまでもアマちゃんで理想主義者にできているせいか、HSで言うところの「人を信じ、世を信じ、神を信じよ」という言葉は、今でもけっこう好きではある。またネット上における匿名同士の議論等では、人を信じて騙されたとしてもさほどの損害もないので、基本的には人を信じることにしておこうと思ってもいる。
ちなみに、もう大分前のことだけど、HSのなかでは変わり者に属し、HSの枠からはみ出しがちの信者が、突然に「退会宣言」をして他を驚かし、その後すぐに「退会は嘘でした」と前言撤回したことがあった。
自分はさすがにこれは酷いと思ったし、当然ながら信者の中にもそのように考えた人はいたようだった。でも、コウさんという信者は、この嘘を責めないどころか、嘘でよかったとしていたのだった。法友であれば、退会は嘘でよかったとほっと胸をなでおろすのが本当だろうと。
自分はコウさんの考え方はけっこう好みではあるし、一理あるように思うので、実際的な損害が予想されない限りは、なるだけ人を信じたいものだと思っている次第ではある。
ああそうだ。自分は上でも書いたように筋金入りのアマちゃんでお人好しのようで、退会してアンチ化して以降も、ORはいつか改心する時があるかもしれないと思ってた時期があった。『サイキック・マフィア』みたいな告白本を書いて懺悔したりとか、本気で修業と思索をして、十年くらいかけて二段組千ページくらいの真理を解き明かした大著を書き上げるかもと…。

サイキック・マフィア 100
『サイキック・マフィア』
サイキック・マフィア―われわれ霊能者は
いかにしてイカサマを行ない、大金を稼ぎ、
客をレイプしていたか 

この辺りは、ほんと自分はアマちゃんだなあとつくづく思う次第ではある。でも真面目な話、ORは本当に知と霊に関心があるのなら、このままでは最期の時にきっと後悔すると思う。自分の自由にできるお金と時間を持ち、どんな文献も揃え、世界中どこでも実物を見に行け、十分な執筆時間もとれたはずなのに、生き神様になってイタコ芸で時間を潰し、まともな本は一冊も残せてないなんて死んでも死にきれないと…。「太陽の法」やこれまでの著作のレベルで満足してるならもう何も言わないけど、神智学や人智学程度の密度と分量の本を書きたいとか、読者の理解に合わせるのでなく、自分の全てを出し切った本を書きたいという気持ちが少しでもあるなら、ORは今からでも心を入れかえて頑張った方がいい。まあ自分もくだらぬことで時間を浪費してるクチなので偉そうなことは言えないのだけど。


*価値基準
倫理観などについては、HSに関わる前から、付き合う相手に影響されることはちょいちょいあったように思う。たとえば、浮気の基準について、彼女と意見の相違があった場合に、彼女に合わせてしまうとか…。あからさまにいえば、相手と別れたくないので、自分を曲げるという情けないパターン。
HSの会員だった頃は、この手のことはよくあったように思う。というか、しょっぱなからそれだった。たとえば、会員さんから「ここに名前と住所を書いてくれたら、月刊誌が無料で読めるよ」と言われて、言われたとおりにしたら、自分に断りなしに誌友会員にされていたのが後で分かったのだった。普通だったら、もうこの時点で縁を切るところだけども、その頃はHSにハマりはじめてたので不問に付してしまった。
また本では、宗教ではないと主張していたのに、宗教法人の認可を受けたと聞いたときは、「なんじゃ、そりゃ」と思ったのだったが、ここでも既にHSにハマってたので不問としたのだった。
この他にも、「話が違うじゃないか」「言ってることと、やってることが違うじゃないか」ということは繰り返され、その度に不問にしてそんなことはなかったことにしたり、「自分には分からない、深い理由があるのだろう」という風に自分を騙し騙ししながら会員を続けたのだった。でもこういうことが何度も何度も繰り返されると、さすがにHSから段々と足は遠退いたのだけれど。
今はどうかといえば、人との付き合いでは妥協することはまだあるけど、それでも前よりかは人に合わせることは少なくなってきているとは思う。こう言ってはなんだけど、相手との付き合いを続けるために、自分の倫理的な基準を大幅に引き下げるのは馬鹿馬鹿しく思える。そこまでしても付き合いを続けたいというなら、それは依存症みたいなものでよくないだろう。仏典では、自分と同等か、それ以上の者がいないなら、一人でいる方がいいというようなことを書いてたと思うけど、これは本当にその通りだと思う。
ちなみに倫理観については、HSでは潔癖症はいけないとしていたりする。
また常識に負けてはいけないという話もある。これは、この世の常識的な倫理、道徳、マナーによって、HSを批判、否定してはいけないというニュアンスである。この点、常識的な倫理、道徳、マナーを大事にしたい人には、HSはあまり向いてないだろうなとは思う。


*ズルズル
上では、「話が違う!」「言ってることと、やってることが違う!」ということについて書いた。名前と住所を教えたら勝手に誌友会員に登録されたとか、神理の学習団体であって宗教ではないとしてたのに宗教法人になったとか。
一応、他の事例も挙げておいてみる。
・当初は、人の内奥には神性が宿っている、内なる神が大事であって、仏像とか、本尊とかは要らないという方向だったのが、宗教法人になったら本尊をつくった。その頃は宗教法人の認可を受けるには、本尊が無ければいけないので止むを得なかったという説明を受けたが、今ではエルカンターレ像をつくって信者に拝ましてるのだから仕方ない。
・当初は、波長同通の法則から、地獄霊は本人の自覚がなければ、天使でも救えないとされていた。地獄霊と天使では、波長が違うから触れ合ったり、話したりできない。地獄霊が反省し、心が正しい方向を向いてくれないと、天使でも何もできないという理屈である。でも後年、先祖供養祭がはじまり、モーゼらが地獄に堕ちてる先祖らを引き上げてくれると宣伝するようになった。
・当初は、真理を学び実践して心を磨くことが第一とされていた。儀式、まじないではなく、心を磨くことこそが大切であり、心こそがすべてだと…。でも今は、先祖供養祭だけでなく、儀式だらけ、祈願だらけになってる。先祖供養祭がはじまった頃、とある先輩会員は、心がすべてではあるけれども、それが分からない人も多いし、そういう人には方便として儀式も必要なのだと言ってたけど、儀式だらけの今の状況を何と言うだろうか。
・当初は、ORは最高最大最強の教えを説いているとしてた、でも後から、これまでの教えは方便であったとしてひっくり返した。具体的には、高橋信次霊は九次元(人霊としては最高位)としていたのが、六次元のキレッパシと変更され、ミカエルは大天使とされていたのが、HS教団の乗っ取りを画策したので謹慎を命じたとか。
・きょう子夫人の過去世は、美の女神アフロディーテだとか、文殊菩薩だとか言ってたのが、裏切りのユダに変更された。この他にも過去世、霊格の変更は枚挙にいとまがない。
・きょう子夫人との離婚の際、子供たちはみなOR側についたとしていた。でも実際は、長男はORとは犬猿の仲のようであるし、ORは次男三男は天狗だの妖怪だのと言ってるらしい。子どもたちはみなOR側だという話はどこ行った。
自分の場合は、先祖供養祭のあたりで支部から遠退き休眠化したけど、初期からずうっと会員を続けている人がいるのを見ると、「情に棹させば流される」というだけでなく、「信仰に棹させば流される」とも言えそうではある。
ところで、藤倉善郎さんのツイッターによると、『出家者の使命』(ORの言葉を抜粋収録した職員限定本)には次のような文章があるらしい。
この本には、総裁を権威として使うなと書いてあります。「総裁も望んでいることだ」みたいに言って信者を従わせるなと。でも別の箇所では、支部を大きくするために「権威」(金ピカの大川隆法像)を立てろとか、「総裁の権威に基づいて協力を呼びかける」とか書いてあります。どっちなんじゃい。
これはいかにもORらしいなあと思う。以前は、ORは矛盾に無頓着だったり、自分が言ったことを忘れちゃうタイプなのかなあと想像したりもしたが、最近は、どっちに転んでも、よいことは自分のおかげで、悪いことは他人のせいにできるように計算してるのかなあという気もしてきている。上の例でいえば、職員が総裁の権威に基づいて信者に働きかけて成功したならば、自分の権威のおかげで、失敗したならば職員の失策だということにできるなあと。
ORはその時々の都合で適当なことを言っているように見えて、自分に不利な場面は上手に避けているようではある。たとえば『虚業教団』によれば、高橋信次の実弟が面会を申し込んできても絶対会わなかったようだし、園頭広周が直接対決を求めても同じ態度だったらしい。近年では、霊言は本物だというわりには、教団外の第三者から真贋の検定を受けるような場には絶対出てこない。マリックさんが超魔術の検証の場に出てきたのとは大違いではある。
この点からすると、ORは、自分は地球神エルカンターレであり、霊言という霊能力を持っているという妄想にどっぷりつかりきっていてそこから全く出て来れないというわけではないようではある。
その後も GLA からは何度も抗議文が送られてきた。内容証明も二度ほど来ている。 しかし、このときの大川はフライデー事件のときと違い悠然としていた。「放っておけ。返答する義務はないのだから」 と取り合おうとしなかった。
大川氏には、「私と一対一であって、それが本当であるか」を証明してほしいと、今までに何通も手紙を出したが返事はない。「貴様に本当に高橋信次先生の霊が出てこられるのであれば、私も考え方を変える」とまで書いてやったが、返事はない。


*取り込まれやすい人
上のアルゴラブさんの記事に、次の一節があった。
そもそも、モラハラの加害者たる自己愛的な変質者というのは、相手から自己承認を得るために最初は不幸な人間として現れるというセオリーに思い至ると、「太陽の法」や「平凡からの出発」にあった赤裸々な描写の意味も納得がいきます。

これらに安易な共感を示して取り込まれてしまったことが、初期の会員の過ちであったと言えます
私はまさにこれに当てはまるようだ。
OR本には、優秀な兄と比べると、自分は愚鈍であったが、そんな自分でも人の二倍、三倍、十倍頑張ることで道は開けると信じて、努力を積み重ねてきたけれども、それでも辛い挫折を経験し、涙を流すこともあった云々というようなことが書いてあり、私はこれに感動したのだった。謙虚な努力家なんだなあ、真面目な人なんだなあと。こんな誠実な人が嘘をつくわけもなかろうとも。
今はどうかといえば、この辺りの単純さは、幾分かは改善されたかもしれないが、それほどの変化はないかもしれない。いまでも、スゴイ話を聞かされれば、すなおにスゴイと思ってしまうし、しょんぼりした話を聞かされれば、気の毒だなあ、可哀想だなあと思ってしまうので。自慢話すんなとか、被害者ぶるなとか、そういう反発はあまり感じない。
どうもこの辺りの性質は、なかなか変えられないもののようではある。


*たとえ話
上の藤倉さんの記事には、時計のたとえ話についての批評があるけれども、
たとえ話については、HSでは、仏典でも聖書でもたとえ話はたくさんあり、仏陀もイエスも高級霊はみなたとえ話が巧みであるとされてた。会員だった自分もこれと同じ考え方をしてた。
ただ今はどうかといえば、たとえ話は、しょせん、たとえにすぎないという感覚は強くなってきてはいる。たとえ話には、すり替え、印象操作、誘導などが入り込みやすいというのも理解できる。文学的な比喩であれば面白いと思うことはあるけれど、宗教的な説教におけるたとえ話には前ほどは感動できなくなってきてはいる。


*言霊、光明思想
藤倉さんの記事には、次の指摘もある。
物事を、現実に対応しないたとえ話によって抽象化して、「必ず報われる」という根拠のない話に説得力を与える。これがまさに「マルチ商法」の動機づけや成功哲学と同じなのだ。
こういうことは、HSでもあったように思う。「言葉は現実となる!」「思いは実現する!」というような考え方があり、マイナスのことを思ったり、言葉に出すのはよくないとされていたのだった。というか、そういうことを言ったりすれば、マイナス発想だとして批判対象になっていたかと。
そんなわけで自分はどちらかといえば、ついつい悲観的な考えをもってしまうクチだったけれども、会員のときは常々、上のことに気をつけるようにしていたのだった。
ただ近年は、この手のことはあまり気にしなくなってきた。言霊思想から自由になったわけでもないけれども、だからといって悪いことは思っても言ってもならないというところまではいかない。
また相手を勇気づけるためであっても、必ずよくなると断言するのは自分は気がすすまないが、いろいろな局面もあり得るだろうし、そういう判断を他人にまで押し付けようとは思わない。でもカルトなどが、それによって相手に暗示をかけ、思考力を奪う方向で使うのであれば反対はする。


*宗教心
自分は無宗教の家で育った。特定の宗教の信者ではないが、神社にお参りしたり、神棚に手を合わせることもあれば、仏壇も拝んだ。お盆には墓参りをして、クリスマスにはケーキを食べた。学校の歴史の授業で、鎌倉仏教を習った時には、先生から自分の家の宗旨が分かる者はいるか問われたときは、思わず、ぽかんとしたクチだった。それまで自分の家の宗旨なんて考えたこともなかったので。
とまあ、こんな感じでは、自分は、宗教については無知、無関心だった。ただそれでも伝統宗教にはさほど抵抗はなくとも、新興宗教に対しては気味が悪い、ヤバいという拒否感は強くあったように思う。
ただそういう自分が、後年、HSにすっかりハマり込み、HS教義で考え、行動するロボット人間みたいになるのだからおかしなものである。でもその理由を考えると、宗教ではないという宣伝文句を真に受けたというのがあったろうなとは思う。「HSは宗教ではない。神理の学習団体である」という文句を本気にしていて、これはまぎれもない宗教だと気付いたときには、既に団体の雰囲気に慣れてしまい、抜けられなくなっていたという流れ。
今でも覚えているけれども、教祖の講演会に初めて行ったとき、会場内には目を瞑って合掌してる人があちこちにいて、ヤバいところに来てしまったと焦ったのだった。でもそういうことにも、じきに慣れてしまった。主に染まれば赤くなるということかな。
現在はどうかといえば、近頃はまた無宗教に戻ったようである。どうも自分は、特定の教義に基づいて考え、行動し、生きることはできない性質らしい。三つ子の魂百までというけれど、これは宗教に対する感覚についても言えることなんだろうなと思う。他の人の場合は違うかもしれないけれども、とりあえず自分の場合はそうなってるようではある。


*以上
今のところ、思い出せるのはこれくらいかな。時間をかければ、もっと思い出して、いろいろ書けそうだけども、とりあえず今はこれだけ。
長々と駄文を書き連ねてしまったけど、カルトで困っている人にとって何らかの参考になれば幸いである。〈了〉