*自己を生かす
武者小路実篤の生田長江の批判に対する反論は熱い。孫引きになるけど、武者小路実篤は次のように書いたという。
氏は僕たちを自然主義前派と言ってゐるが、僕たちは日本の自然主義が自己を生長さすことに無頓着だったのに我慢できずに立ったのだ。自己の主観を生殺しにするのに反対して、自己を生かしきらないでは我慢ができないので立ったのだ。内の要求に立ってゐるのだ。 
(『武者小路実篤 人と作品36』福田清人 松本武夫編著、清水書院、昭和47年、p.68)
これは言わんとすることは分かるような気はする。著者の意図とは違った解釈になってしまうかもしれないけれども、以前、自分もこれと似た思いを感じたことはあるので。

少し具体的なことを書くと、自分は、とある宗教にハマったことがあるのだけれども、その宗教では当初は自分の心を磨き、自己を向上させることを奨励していたのだった。でもそれがいつのまにか、ちっぽけな自分は捨てて、教祖の言う通りに考え、行動することをすすめるようになっていった。

でも自分は、どうしても自分を捨てきることはできず、「自己を生長さすことに無頓着だったのに我慢できずに立ったのだ。自己の主観を生殺しにするのに反対して、自己を生かしきらないでは我慢ができないので立ったのだ。内の要求に立ってゐるのだ」というような気持ちで棄教したのだった。

思うに、自我の目覚めを経験していない人ならまだしも、いったん自我を意識した人はもう、たとえ神の前であってさえも、それを再び忘れてしまうなんてことはできないということなんだろう。ちと大袈裟かもしれないが、近年の宗教の衰退の一因は、この辺りにもあるのかなという気はする。


*独立心
自分の心酔した対象を、まぶしいほどに輝かしい、尊敬すべきものとしてはるかかなたからそれを眺めるていること、眺められること、そうすることだけで十分に満足感を味わいうる時期があるものである。それがやがて自己を意識しだし、自己とそれとを対照しはじめるとき、それらの均衡は崩れる。 
(同上、p.45)
これは編著者の言葉だけども、武者小路実篤は、トルストイに傾倒した時期はあったけれども、その後は、上にあるような経過をたどったらしい。

恥ずかしながら、自分も上に述べた通り、若い頃には特定の人物、思想に傾倒し、かぶれることが多かった。でも、だんだん自分というものができてくるにしたがって。そういうことから離れ、他の誰かを理想として、他の誰かになろうとするのでなく、自分自身になろう、自分を確立しようという方向にすすんだ経験はあるので、これはよく分かる。

若い頃に特定の人物、思想に傾倒し、その後もずっとそのままという人もいるだろうし、それはそれでいいのだろうとは思う。ただ自分の場合は、どうもそういうタイプではないらしい。これは多分、優劣の問題というよりは、人それぞれであって、その人の個性によるということなんだろうな。