信仰は論理ではないという。
これはその通りだと思う。

でもこれは、
信仰は論理を無視するということではなくて、
信仰は論理を超えているということではなかろうか。

別な言い方をすれば、
論理で判断できないことについては、
信じるか、信じないかという選択になるけれど、
論理で判断できることについては、
信仰の問題にはならないということ。

   *

恥ずかしながら、
かつて自分は、このことが分からず、
論理的にも、現実的にも、バツ判定が出ているのに、
それを断固として、否定して、
マルだと信じ込もうとして、足掻き、悩んだのだった。
それが信仰だと勘違いしていたのだった。

今にして思えば、
本当に愚かだったなあと思う。

   *

人は、論理だけで生きているわけではないから、
論理でバツ判定されることであっても、
「私はマルだと信じる。マルだと信じたい」
と願いたくなったとしても仕方がないことではある。

でも、
人は、論理だけで生きているわけではないように、
信仰だけで生きているわけでもないから、
論理でバツ判定が出ているのを無視して、
マルだと信じ続けることは、どだい無理なことなのだ。

宗教にハマりすぎてしまうと、
論理を無視、または否定して、
ただただ信じるという方向に行きそうになるけど、
この辺りの間違いは、よく注意しなければいけないと思う。