*人格攻撃
わたしは多くの論争を見聞きしてきましたが、とくに、インターネット上で行われる論争では、しばしば続行不可能な状況に陥り、閉じなければならなくなった掲示板もいくつかあります。なぜ、これらの論争は続行不可能となっていったのでしょうか。それは、批判が、意見や思想ではなく、人格攻撃に向けられたからです。批判が、意見や思想にではなく、人格攻撃に向けられれば、啓蒙のための論争とはならず、愚鈍なケンカになってしまいます。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n027.html
佐倉哲さんのページを読んでいたら、上の文章があった。これは本当にその通りだと思う。議論は、人格攻撃が混じると、売り言葉に買い言葉といった具合に、荒れに荒れて収拾がつかなくなりがちである。だから実のある議論のためには、人格攻撃は止めた方がいい。
ただ、かくいう私自身も、人格攻撃はよくないと思いつつも、ついついそこに踏み込んでしまうこともあるのだから情けない。ここは、よくよく気をつけねば…。
宗教は、もともと、人の心の問題を扱うものであるせいか、議論では、相手の意見だけでなく、その心掛けにも批判の矛先が向かうことが多くなる傾向はある。
たとえば宗教の議論では、「あなたは傲慢だからいけない」「謙虚でないから真理が分からないのだ」という類の発言が飛び出してくることはそう珍しくはない。ときには、「信仰心がない者は、人というより、獣だ。悪魔だ」という具合に、相手を悪魔呼ばわりする人さえいる。
宗教の議論で、容易に人格攻撃が紛れ込んでくる原因は、人は〇〇でなければならぬという戒律だとか、悪霊悪魔などの目に見えない邪悪な存在を信じているところにあるのだろうけど、ここは特に注意が必要だと思う。


*人格批判に対する反論
「いや、わたしの人格は立派です」などという内容の反論は自己矛盾ですから、人格攻撃に対する反論は始めから不可能なのです。そうなれば、攻撃し返すか、ばからしくなってどちらかが、「反論できないから逃げるのだろう」という声を背中に聞きながら、引き下がる以外に出口がありません。
これもその通りだ。人格攻撃に反論しようとすれば、「私の人格は下等ではありません」「私は善良な人間です」という主張をせざるを得なくなる。自分で自分の人格を擁護するなんて恥ずかしくてやってられない。結果、人格攻撃は聞き流すしかなくなる。
「反論できないから逃げるのだろう」というのは、議論の終わりによく聞く言葉ではある。自分の場合は悲観的な方なので、反論が無かったら、「愛想つかされたかな…、相手にされてないかな…」などと思うのだけども、巷には「俺の意見が完璧で、反論できないから逃げた」と考える人もあるようで、世の中には本当にいろいろな人がいるのだなと思う。
でも、そんな風に「反論できずに逃げた」と嘲笑されても、何も言わずに立ち去るというのは大人の対応のように思えるし、自分もそんな風になりたいものである。


*人格攻撃に対する対応
ちなみに仏陀は、人格攻撃に対して、次のように対応したという。
悪口雑言を受けたブッダが、「出した食事に客が手を付けなければ、それは主人のものになるしかないように、向けた怒りを相手が受け取らなければ、それは本人の元へ戻り、本人のものになるしかない」と言ったという有名な話がありますが、これは本当にそういうものだろうと思いますね。
もう一つ、こういうページもある。
その悪口はきみのものだ
これは若干、嫌味っぽい感じがしないでもないが、言わんとすることは分かるように思う。
ちなみに、これとは違った切り口では、こういう言葉がある。
ものいえばくちびるさむしあきのかぜ【物言えば唇寒し秋の風】

〔芭蕉の句。人の短所を言ったあとは寒々とした気持ちに襲われる、の意〕
転じて、うっかりものを言うと、それが原因となって災いを招く。口は災いのもと。
人のことを悪く言ったあとの嫌な気持ちというのはよく分かる。やはり、人格批判にしろ、人格攻撃にしろ、そういったことは人のためにも、自分のためにも止めておいた方がよさそうではある。ここは議論に熱くなってくると、自分も失敗しがちなところなのでよくよく反省せねば…。