*まえおき
HSによる宏洋批判の動画を見たので、自分なりの感想を書いてみたい。
・宏洋氏の嘘「一度も信仰を持ったことがない」【宏洋の真相シリーズ】
*信仰心はあったか、なかったか?
まず宏洋氏の主張は、自分は大川隆法を神だと信じたことはないというものだった。
これに対して、HS(沙也加氏)は、宏洋氏はエル・カンターレ(大川隆法)を信じたことはあった、しかしそれは自分に都合の良いときは信じるけれども、そうでないときは信じないというものだったとしている。
自分としては、この点については宏洋氏の発言よりも、HSの反論の方が理解しやすいように思う。
恥ずかしながら、自分の過去を振り返ると、HSを棄教した直後は、「何でこんなものを信じてしまったのだろう。こんなものを信じたことが恥ずかしい」という気持ちになったものだった。友人知人には「そもそも自分は、元からこんなの信じてなかった」と言い訳したくなったりもした。
宏洋氏もそういう気持ちになっていて、自分ははじめから全然信じてなかったと公言してしまったのかなあという気はする。宏洋氏の本音は宏洋氏にしか分からないことではあろうけれども、自分は自分の経験からそんな風に想像するわけである。
宏洋氏もそういう気持ちになっていて、自分ははじめから全然信じてなかったと公言してしまったのかなあという気はする。宏洋氏の本音は宏洋氏にしか分からないことではあろうけれども、自分は自分の経験からそんな風に想像するわけである。
*異性問題との共通点
ちなみに、こういう心の動きは、男女間の問題でもよくあると思う。失恋や離婚のあとに、「本当はそんなに好きじゃなかった。本当は結婚したくなかったんだ」と過去を否定し、相手の悪口を言うパターンである。
一つ具体例を挙げるとすると、総裁は、きょう子さんとうまくいっていたときは、きょう子さんのことをベタ褒めしたり、にこやかなツーショット写真を撮ったり、五人も子供をもうけたのではあるが、きょう子さんとうまく行かなくなり離婚に至ると、きょう子さんのことは当初から好きじゃなかった、結婚したくなかったと言い出したのだった。これはまさに上のパターンにハマっている。
ようするに、相手とうまく行っている間は相手を信じて肯定的に見るけれども、うまく行かなくなれば相手を否定して悪く言うというのは、総裁も含めて、人はみんな同じような傾向を持っているのだろうということ。
HSは、宏洋氏の信仰心の揺れ、心変わりを非難しているようだけども、この手のことは、人ならだれでも持っている欠点であり、宗教的にいえばカルマ、業、原罪のようなものであり、本人の努力だけではいかんともしがたい部分も少なくないのだから、それを責めても仕方ないのではなかろうか。そんな風に人を責めるよりは、まず自分にもそのような欠点がないかどうかを反省することこそが信仰者としての態度ではあるまいかと思う。
*人の信仰を嘲笑ってはいけない
ところで、動画を見ていて思ったことだけども、HSの方々が、宏洋氏の信仰心を見下し、嘲笑っているのはとても残念だった。
信仰熱心な人を嘲笑するのはよくないように、信仰心の弱い人を見下し、嘲笑するのもよくないことだろうし、できる人が、できない人を見下し、嘲笑するという状況は、神様は決して良しとすることはないだろう。
ところで話は飛ぶようだけども、人生の価値は、その長短で決まるものではないという意見はよく聞くところである。これはその通りであって、人生は長ければよいというものではないし、短ければダメというものではないだろう。そうであれば、信仰もこれと同様に、長ければよいというものではなかろうし、短ければダメというわけではないのではあるまいか。
人には個性があり、神様はその個性に応じた役割を与え、御導きになるのだろう。そうであれば、神様が、みなに一律に同じような信仰心を持たなければならぬという義務を課すことはありえず、その人の個性によって信仰心の強弱、長短があったとしても、それは必ずしも否定したり、非難したりすべきことではないような気がしないでもない。むしろ神様はそのためにこそおられると言えなくもないではなかろうか。
思うに、結局のところは、その人の信仰が義であるかどうかを判断できるのは神様だけなのだから、人が他人の信仰について、あれこれ批判したり、裁いたりしてみても詮無いことである。人にできるのは、他人の信仰を批評することではなくて、自分の信仰を深める努力をし、神様に祈ることだけではあるまいか。
もっともこれはあくまで私の信仰観にすぎず、HSの方々がこれに従わなければならぬということはないのは言うまでもないことではあるが、どうも宏洋氏の信仰を嘲笑っているように感じられたところが気になり、あれこれ書いてみた次第である。
もしかしたら、HSの方々が宏洋氏の信仰心を見下し、嘲笑っているというのは当方の早とちり、勘違いであるかもしれないが、その場合はこの項に書いたことは的外れということであるし、どうかご容赦願いたい。失礼。