キリスト教思想への招待 120

先日、『キリスト教思想への招待』(田川建三著)を読んだ。独特の語り口の文章なので、人によって好悪は分かれそうだが、自分としては、はじめて知る話が多かったので面白かった。
というわけで、著者のことを調べてみたら、次の文章をみつけた。
神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「神を信じないクリスチャン」であるとする。
これはちょっと分かる気はする。

氏の考えとは異なるかもしれないが、思うに、信仰者はそれぞれ自分の心に「神はこういう存在だ」というイメージを持っているものだ。だから神を信じるときは、神そのものを信じるというよりは、自分の心に描いた神のイメージを信じることになる。そうして、自分の心に描いた神のイメージに反するものは、神として信じることは拒否する。

これは、偶像崇拝とされても仕方ないことだよなあと思う。偶像という物体を拝んでいるわけではないけれども、心に描いた偶像を拝み、神以外のものを神としている点では、偶像崇拝にはちがいないだろうから。

また、神は人知のおよばぬ超越した存在だとすれば、人が心に神のイメージを描いた時点で、それは人知がおよんだものであり、神ではない証明になってしまいそうでもある。

なんか変な結論のようだけども、こう考えてみると、神を信じるのは、心の中に偶像をこしらえる偶像崇拝にすぎないとか、神を信じるには神を信じてはいけないというのは、まったくのデタラメとは言い切れないとは思う。

ちなみに、本来、神は人知のおよばぬ存在ではあるが、人が己の力によってではなく、神の働きかけによって神を知り、交わり、信じることは可能であるという理屈も有り得るかもしれないが、どんなに神について語ったところで、自己の神イメージによって神を語るという偶像崇拝に陥ってしまっている可能性をゼロにできない限りは、何を言っても詮無いことではある。