本書はこれまでは何度かチラ見しただけだったけども、今回ようやく通読できたのでその内容と感想をメモしておきたい。
まずタイトルについて書くと、訳者あとがきによれば、本書の原題は「革命家」で、副題は「ナザレのイエスの生涯とその時代」とのことである。二つを合わせると、「革命家 ナザレのイエスの生涯とその時代」。
この点、邦題はおかしなものになっている。本書はイエスは実在したかどうかを検証するものではなく、イエスは実際はどんな人物だったのかを探るものなので。
次に内容について書くと、本書は三部構成になっている。まず第一部では、イエスの生れたエルサレムの状況について説明されている。ローマによるユダヤ支配の方法、ローマと祭司の癒着、当時のユダヤ人の暮らしぶり、ユダヤの解放、独立、ダビデの王国の再建を試みる人々など。
第二部ではイエスの実像について書いてある。その中でもっとも印象的だったのは、当時の識字率、イエスの職業などから、イエスは読み書きはできなかったろうと推測していること。洗礼者ヨハネについて、福音書より大きな存在として描いているのも印象的である。
著者はここで、福音書と史実との食い違いを多く指摘しつつも、福音書作者は、自らの信仰と、イエスの本質を書き記そうとしたのであって、歴史を綴ろうとしたのではなかったとしていたのも印象的である。福音書作者と史実を探る自身との立場や視点の違いを強調し、福音書作者への配慮を示しているらしい。
またイエスの行った奇跡について、それが神による奇跡であるか、魔術であるかの議論はあっても、奇跡それ自体があったかどうかを疑う文書はないとしてるのも印象的である。当時の人々にとって、何による奇跡かは問題になっても、奇跡が事実かどうかは問われなかったらしい。
あとは…当時は、障害者や病気の人が神殿に入ることは許されず、もしどうしても入りたければ、祭司に高額な費用を払って特別な儀式をしてもらわなければならなかったが、イエスは費用をとることなく、無料で、それらの人々を癒し、浄め、神殿に入れるようにしたのであって、これは祭司に対する強烈な批判になっていた指摘は格別印象に残った。
第三部では、イエスの死後の弟子たちの動きについて書かれている。イエスの死後、弟子たちのリーダーになったのはペテロではなくて、イエスの弟ヤコブであり、ヤコブは教団の内外から義人ヤコブと言われるほど尊敬されていたこと、ヤコブらが主流であり、パウロはそうではなかったこと、ヤコブは殺され、ローマによってエルサレムは焼き落されるにいたってヤコブらの流れは細くなり、パウロ側の勢力が増していったことなど。
最後に全体の感想を書くと、本書のように宗教の起源について書いたものを読むと、宗教は神によるものでなく、人為によるものだという印象を持たざるを得ないように思う。ただそうは言っても若干、心に引っかかるものがないでもない。
例えば本書では、ユダヤ民族の独立を目指した自称メシアは大勢いたとしつつ、その中でイエスの名が残ったのは、イエスの復活を信じた人がいたからだとしているが、ではなぜイエスの復活を信じる人が現れたのか、なぜその信仰は共感をよんだのかについての答えは見当たらない。ここはちょっと不満ではある。
「どのようにして?」ならともかく、「なぜ?」という問いは、事実を問うというより、自身が納得できるかどうかを問う要素が強くなりすぎて、あまりよろしくないとは思うのだけども、でもやっぱりここは気になるところではある。これについては宗教や進化心理学の本を読み漁ることになるのだろうけれども、とりあえずは今後も自分のできる範囲で調べるようにしたいとは思う。