先日、『古典を讀もう』という岩波文庫の古い本を見つけた。昭和30年発行で本文は70頁ほどで、そのあとは在庫目録が94頁まで続くという100頁もない本。当時はいくらだったんだろうと最後の方を繰ってみると奥付に「非讀品」とある。本屋さんで無料配布していたのだろうか。ネットで検索してみると、岩波書店のページがあった。
1955(昭和30)年
3月,小冊子『古典を読もう』(執筆者〔座談会の記録などはその参加者〕=野間宏,亀井勝一郎,梅原龍三郎,吉田洋一,中野好夫,桑原武夫,清水幾太郎,久野収,なかのしげはる,宇野重吉,幸田文,ドナルド・キーン,谷川徹三,内池佳子,松方三郎,久保田万太郎,杉浦明平,小宮豊隆,富永惣一,河野与一,中谷宇吉郎,池島信平,都留重人)を発行
 手元にある『古典を讀もう』の状態はといえば、通常の経年劣化によるヤケなどはあるものの、破れ、折り目、濡れ跡、割れ、開き癖などはないし、寝転んで読んでも顔に塵が降って来ることもなく、けっこうな美本ではある。こういう本がウン十年間も捨ても紛失もされず、良い状態で保存されていたというのは珍しいことのようにも思う。自分はウン十年前に無料でもらった文庫目録やら小冊子やらは全然手元に残ってないし…。
 で、中身はどうかと、とりあえず亀井勝一郎の「古典を読むとき」という四頁ほどの短文を読んでみると、これはなかなか共感できる文章である。まず著者は自身の青年時代は日本の古典文学よりも、ヨーロッパ文学の方に「はるかに心ひかれてゐた」のだという。これはよく分かるように思う。自分も同じだったというと身の程を知れとお叱りを受けそうでもあるのだが、世界文学全集に入っているような作品を読むとほぼハズレはないのに、日本文学全集を読むとどれも面白くないのはなぜだろうとよく思ったのは事実ではある。世界中から数百年間の間の名作を集めた全集30冊と、明治以降約百年の間の日本の作品だけを集めた全集50冊とでは、前者の方が質が高くなるのも当たり前かと考えたりもしたけれども、シェイクスピアはおもしろく読めても近松はそうでもなかったりするし、やっぱり外国の方がいいと思わざるをえなかったのだった。
 また著者は、30代になってから「自國の古典について殆ど」知らないことは恥ではないかと反省するようになり、また民族主義の影響もあり、意識が変わってきたのだという。これもよく分かるように思う。ただ自分の場合は、根がどこまでもぐうたらにできているせいか、日本の古典を読もうと思いつつもあまり読んでいないのは情けない。どういうわけか古事記と論語が並んでいると論語を手に取ってしまったり、日本書紀と聖書があると聖書を選んでしまったりしてしまうのである。
 著者は日本の古典を読むにあたって、「觀念上の猛烈な混血作用が起こつた」とも書いている。日本の古典を読む際に、どうしても近代ヨーロッパの視点で見てしまうというのである。さすがに自分はそこまで深く欧米の影響は受けていないとは思うのではあるが、それでも欧米の古典より、日本の古典の方を遠く感じることはある。どうも当時の日本の人々の情緒に自分の情緒を重ねることはできず、したがって日本の古典を本当には味わえず、かといって欧米の古典にも情緒を重ねることはできないというどっちつかずの状態であり、著者の危惧している根無し草のようで、つらいところではある。
 「文學作品はどんな風に讀んでも差支へない」としつつも、勝手な解釈で「歪めてゐはしないかといふ疑惑を絶えず自分に持ちつゞける」という著者の意見には同感である。文学の感想は自由だろうけれどもその著者の意図をまるで理解していないのであればいささか惜しくもあり滑稽でもあるし、その意図を理解したとしても自分独特の解釈がないなら果たしてそれは文学を味わったのか少々疑念は残る。すぐれた作品ほど著者の意図せざるものが多く入り込みその作品を豊かにするものであろうし、著者の意図するもの以外の何かを感じ取れなかったとしたらそれはさみしいかぎりである。
 亀井勝一郎はずいぶん前に文庫本を一、二冊読んだくらいで、その時はなるほどとは思っても、かといって心から感銘を受けたというほどではなかったのではあるが、今回読んでみたら共感できるところは多々あるし、もうちょっと読んでみたくなってきた。前は感動しなかったものにその後で感動するようになることもあれば、またその逆に前は感動したものにその後は感動しなくなったりすることもあるし、やはり決めつけはしない方がよさそうだ。