宗教と現代がわかる本 2007
『宗教と現代がわかる本 2007』(渡邊直樹責任編集)を眺めていたら、遠藤周作についての文章があったので読んでみた。江藤淳が『沈黙』に描かれたキリストについて、母性的な面が強調されて日本の母親のような存在に描かれていることを指摘したという話は知っていたけれど、「元来、キリスト教は〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが、日本へは前者の面だけが強調される形で伝達された」という見方は知らなかった。でも考えてみれば、キリスト教にはその両面があるというのはその通りのように思える。ただ日本ではマリア観音というものもあったというし、父なる神という「面だけが強調され」たというわけでもないようにも思うがどうなんだろう。
 それはさておき、上の考え方からすると遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されないということになりそうではある。自分は遠藤周作のキリストに共感するところがあるのだが、それは遠藤周作によって日本人に合うように仕立て直しされたキリスト教であるからある意味当然であり、そういうキリストに共感したとしても実際のキリスト教のキリストを知ったことにはならないだろうし、遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと思ったりもしていたのではあるが、これはそれほど気にしなくてもよいということになるのかもしれぬ。
 また著者によれば、『日本人と母 文化としての母の観念についての研究』(山村賢明著)では、母親は「つねに、堪え忍び、あるいは家族に尽くす存在であり、子供の側から見れば〈受難者〉といった感じが強い」とされているとしており、それは「母親はあれほど苦労したのに自分は何もしてやれなかったという罪悪感」にもつながり、その辺りのことはキリストへの気持ちと、母親への気持ちは重なり得るのではないかとのことである。
 これは少し分かるようにも思う。母親へのすまないという気持ちは何らの前提なしに分かるし、キリストの場合もその教義から想像すれば自分のせいで罪無くして裁かれたとも言えるようであるし、いたたまれない心地はするので。
 さらに著者は、遠藤周作のキリストは無力な同伴者であって「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」存在としており、これには「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」としている。
 ここも分かるように思う。自分はここから連想するのはミケランジェロのピエタだけども、こうしてみるとたしかにキリストと母親の姿は重なるようではある。でもそうすると自分としては、ピエタをじっと見ているとだんだんにキリストと母親(マリア様)が重なり、母性の権化のようなマリア様こそがキリストそのものという感じがしてきて、無意識のうちに祈るときにはキリストにではなく、マリア様に向けて祈りたい心持ちになってしまうのだから我ながらおかしなものではある。
 三浦綾子は、「祈る対象は、この世を造り給うた全能の神でなければならない」(「天の梯子」第一章祈りの姿)ときっぱり言い切っているし、理屈から言えば、キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども、自分の場合は根が多神教体質にできているせいかどうか祈ろうとするときには、全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもするし、むしろそれこそが一番自然な流れだったりもするわけであり、もしそれを変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり、そういう状態は到底長続きさせることは無理なのだからしょうがない。こうしてみるとやはり外国の宗教を理解し、実感として分かるようになり、元から自分の中にあったもののように馴染み切るというのは本当に難しいものだと思う。