*自己肯定
木地雅映子さんのツイートを見てたら、自己肯定感にとらわれることに注意喚起する記事が紹介されていた。
木地雅映子@KijiKaekoむむ、今どきの『自己肯定感』の高い低いは、あの古臭い『ネアカ』『ネクラ』の子孫みたいな文脈で語られて、ネクラはだめだネアカになれ!っていう圧力になってるってことなのかな。そりゃ害にしかならないな。
2019/11/04 10:42:39
ネクラはいいぞ。
https://t.co/k0uc4jXGsx
たしか、『嫌われる勇気』では、自己肯定は、自分にできないことについて、「自分はできる、必ずできる」と自己暗示をかけることで、これはある意味、自分に嘘をつくことだとして批判してた。それに対して、自己受容については、できない自分をありのままに受け入れた後で、どうしたらできるかを考え、行動することだから、よいことだとしてた。
この記事でいう「自己肯定感」というのは、このうち前者について語っているようでもあるが、後者について語っているようでもあり、どうも判然としないのではあるが、そのどちらにしても、必ずこうでなければならぬと一つことに固執している状態は窮屈だろうし、苦しいだろうな。
こうなるとまさに、「「閉じた世界」から脱出する」ことが必要になってくるわけだ。
*自己変革
上記の記事中、この辺りは、自己変革について疑問を提示しているようだ。
どのようなキャッチフレーズが登場したかを振り返ってみると、「自分を愛せなければ他人を愛せない」「あなたが自分を好きでなければ他人に愛されるわけがない」「自分を愛せるように」「自己肯定感を高めるための法則」「自己肯定感の低いあなたに足りないもの」などなどです。共通点は、多様な説明や切り口があるにもかかわらず、最終的には自分で自分をどうにかできる、しなければならないという考えに帰着することです。一見、自分は自分次第という希望を与えるように思えますが、最後は自分しかいないというどん詰まりの考え方ではないでしょうか。まさにこれこそが、自己選択・自己責任の罠なのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=4
自己変革にしろ、自己責任にしろ、一面の真理を有しているのはまちがいないのだろうけれども、上にも書いた通り、こうでなければならぬと強く思い込んでしまっている場合は面倒なことになりがちだ。
人にはそれぞれ個性があり、抱えてる事情もちがうし、さらにはたとえ同一人物でもタイミングということもあるものだ。その時々によって、その人にとって自己変革や自己責任が必要なときもあろうが、それとは反対にそんなものは要らないときがあるのは当然だ。自分を変えるべきときもあれば守るべきときもあり、自分でやるべきときもあれば他人を頼っていいときもあるみたいに。
でも、あまりに強く一つことに執着して、こうでなければならぬと思い込んでしまうと、この辺りの臨機応変さがなくなるから苦労することになる。
その意味で、この言葉はよく納得できる。
人にはそれぞれ個性があり、抱えてる事情もちがうし、さらにはたとえ同一人物でもタイミングということもあるものだ。その時々によって、その人にとって自己変革や自己責任が必要なときもあろうが、それとは反対にそんなものは要らないときがあるのは当然だ。自分を変えるべきときもあれば守るべきときもあり、自分でやるべきときもあれば他人を頼っていいときもあるみたいに。
でも、あまりに強く一つことに執着して、こうでなければならぬと思い込んでしまうと、この辺りの臨機応変さがなくなるから苦労することになる。
その意味で、この言葉はよく納得できる。
そもそも万人にあてはまる子育ての「正解」はない。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128結局のところ、人生、教育、価値観、人生観など、人に関するものは、こうでなければならぬと一律に決めつけることはできず、人それぞれとしか言えないことがほとんどではなかろうか。ここは自分もうっかり忘れてしまうことがあるのではあるが、よくよく自戒したいと思う。