*経緯説明
先日、shalomさんから「楽山日記(a)」でコメントがあったので、何気にその方面について検索してみた。いろいろと見てみたが、どうもこれまでの経緯をまとめておいた方がよさそうに思うので、ざっと書いてみる。
まず超かんたんに経緯を説明すると、楽山は、はじめのうちはstさんはずいぶんと丁寧な言葉遣いをする腰の低い人だと思ったのであるが、じきに、shalomさんに対する攻撃があまりに酷すぎることに気づき、その点を注意したら、shalomさんの仲間だと判断され、粘着攻撃されるようになり、今に至るということである。とほほ。
で、これをもうちょっと詳しく書くと下のようになる。なるだけ時系列に沿って書こうと思うが、はなはだ頼りないことながら、勘違いがあったり、事柄が前後したりすることもあるかもしれない。ご了承願いたい。
というわけで、まずはこの辺りから書いてみる。
・楽山ブログにstさんからコメントが入る。
stさんのブログを見ると、訂正不能はダメとか、教条主義でなく情緒が大切とか、共感できる考え方だった。
・stさんがすごく落ち込み、傷付いている様子の記事が出る。
気の毒に思って、事情を調べてみると、ヨシュアという人からボロクソ言われたせいらしい。
stさん側に同情、擁護。
そしたら、ヨシュアさんは、stと楽山は同一人物だと言い始めた。
激論中に割り込んできて、st擁護するのはおかしい、stのなりすましに違いないと。
マグマリさんも、このstさんと楽山は同一人物だというヨシュアさんの主張を支持してた。
・st、ヨシュアさんの間で批判合戦がつづくなか、ヨシュアさんは記事が削除されたと怒ってた。
stさんは、ヨシュアさんの記事は自分に対する誹謗中傷だとyahooに通報して削除してもらったらしい。
しばらくの間、stさんは、ヨシュアさん、マグマリさんのブログに乗り込んで批判活動をしてた。
たしか、この頃、stブログのコメ欄に、病気を疑う書き込みがちょいちょいあり、stさんは怒ってたように記憶してる。
・stブログで、shalomさんを偽善者などと糾弾する記事がどんどん出始める。
偽善はダメとか、訂正不能はダメとか、それはそうだろうと思う。
・stブログで、shalom批判記事がつづく。
shalomブログをちらと確認するも、そこまで強く批判する理由はいまいちわからず。
でも偽善はダメ、訂正不能はダメとかは、それはそうだろうと思う。
・shalomさんが楽山ブログに来る。
stさんの批判記事を見ていたので、悪い人かと思っていたら、話してみると、わりと普通。
ときどき、stさんに向けて皮肉めいたことをチクリというので、これが問題視されているのだろうなあと思い、注意すると素直に応じる。
いつぞやは、皮肉か何かを言ったことで、stさんに謝罪し、そのあと、負けるが勝ちといって舌を出すようなことをした。案の定、stさんは激怒。
言わんこっちゃない。
たしか、この頃、shalomさんは皮肉を言うことについて、あんまり酷い言われようなので、皮肉の一つも言いたくなるというような説明をしていた。
当時はそれでも止めといた方がよかろと思ったけど、今はそりゃそうだろうなと思う。
・stさんの執拗なshalom批判はつづく。
はじめのうちは、記事を公開したら、それに批判があったとしても、ある意味当然だろうとか、shalomさんの記事に対して、stさんなりの感想を書いてるんだろうと考えていたものの、shalomさんの発表する全記事に噛みついてるようなのは、ちょっとどうかとも思う。
stさんに対して、批判のやりすぎをそれとなく注意してみたり、北風と太陽の話を振ってみるが、反応はいまいちなので撤退する。
以後、折を見て、批判のやりすぎはよくないという話をするも、効果なし。それどころか逆ギレの気配あり。おそろし。
・易坊さんとstさんの議論のとき、stさんの応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていないというか、ありえない勘違いというか、そんな感じ。
易坊さんは、ほらこれだという風に示してたので、こういうことは過去にもちょくちょくあったっぽい。
当時は、stさんのおかしな言動については、不安を感じつつも、うっかり勘違いとか、読解ミスなんだろうと解釈するようにしてたけど、今はもう遠慮なく言わせてもらえば、思い込みが激しいため、stさんには周囲の事が普通とは違ったように見えているのだろうと思う。だから「それは違うよ」と指摘されても、自分の見解を修正できない。なぜならstさんにとってはそれこそがリアルだから。
stさんとの対話が困難なのは、勘違い、読解力の問題というより、妄想のせいなんだろうと思う。妄想は、事実を示しても、理を示しても、修正不能だから妄想であるし、これはもうネット上で会話をしたくらいではどうにもならない。そういえば、いつぞやは私が、事実に関する議論はすぐ終わる、事実を示せばそれで済むからだといったら、stさんの反応はぼんやりしてて鈍かった。事実によって修正できない人だから、私の言うことに合点が行かなかったのかもしれぬ。
そういうわけで、以前、易坊さんの見解には少々懐疑的だった自分も、今ではだいぶそちら寄りの考えになってる。
・shalomさんがサイクリングして楽しかったことをコメントしてきたことがあった。これに対して、stさんは、あなたにはそんなお気楽なことを書いてくる資格はないとか激怒してた。
またshalomさんは、ご親族が骨折した話をコメントしてきたことがあった。これに対するstさんの反応は、shalomは同情を引こうとしているという糾弾だった。
私は、いくら意見対立がある相手だとしても、それとは関係なしに、日常の楽しかったこと、不幸などについては、「楽しそうで何よりだ」「気の毒に、大事にしてください」みたいに普通に応答するもんだと思ってるので、stさんの態度は理解不能ではあった。
私も、けっこうな批判屋ではあるけど、さすがに議論テーマと関係ないことまで激怒したり、批判する気にはなれないので。
これがいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというものかと思ったりもした。
・shalomさんが、stさんのことを自他未分化と批判してた。
初めて聞く言葉なので、その意味ははっきりとはわからないものの、字面からゆくと、一理あるかもしれぬとは思う。
stさんは、楽山に対して、shalomさんと口を利くなとか、あれこれ命令してきて、楽山が独立した人格であることに、てんで気づいていないようだったので。
・もう一つ、shalomさんがstさんのことを、自戒と他戒の区別がついてないとか批判してたことがあった。
そう言われて見れば、stさんが訂正不能はダメとかいうのは、訂正不能にならないようにしようという自戒というより、shalomは訂正不能だからけしからんと裁くことに使われてた。偽善とか、その他のことについても同様だ。
・shalomさんはお話し好きなようで、他のブログのコメント欄を訪問することがよくあった。でもそうすると、そこにstさんが突撃して、shalom批判を連投していた。
そういう場合、そこのブログ主さんは、shalomさんとは対話しても、stさんはスルーしてるようであった。
・易坊さんはいつどや、stさんと楽山はさびしいんだと思うとか、友達を欲しがってるとかそんなふうなことを言ってて、私はいまいちピンとこなかったのであるが、今はstさんはそういうところはあるように思う。
shalomさんと私が話をしてると、強引に割り込んできたし、人は人、自分は自分という風に、他に過干渉することもされることも回避する考え方に、猛烈に反発するのはそのせいかなと。
人恋しい人が、スルー推奨という考え方に賛同するわけもなかろと。
・stさんは、shalomさんをカルト呼ばわりするけれども、霊感商法をしたとか、献金詐欺をしたとか、自分を信じないと地獄に堕ちると脅したとか、そういう事実の指摘はない。
もっぱら偽善だとか、悔い改めがどうとか、自分の価値観、判断を振り回して、shalomさんにカルトのレッテルを貼るばかりで、客観的なカルトの基準と比較して、それに合致するからカルトだということはない。
そこで私は、藤倉善郎の「カルトの定義をめぐるあれこれ」を提示しつつ、カルト呼ばわりするなら、違法行為や人権侵害の事実を指摘するべきであって、それができないならカルト呼ばわりすべきでないことを指摘した。
これに対して、stさんの反論は、何かあってからでは遅いとのことだった。彼は何か悪いことをするに違いないから攻撃するというのは、明確な人権侵害だろうが、そんなことは気にしないらしい。
ちなみにstさんのいう「何か」とは、その後、shalomさんや楽山によって自分は消されるかもしれないという発言していることからすると、殺人事件を念頭に置いているらしい。
傍から見て、shalomさんに殺されるかもしれないというのは極端な被害妄想だし、そんな妄想を根拠にカルト呼ばわりするのはおかしな話だ。
・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。
それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。
stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。
・stさんは、楽山はクリスチャンになりすました、クリスチャン芝居をしたと非難した。
私は前々から自分はノンクリであること、無宗教であることを書いているので、なぜそういう話になるのか分からない。
・stさんは、今でもshalomさんが悔い改めは必要ないといったと非難し続けている。私はこの件について、shalomさんに確認したところ、悔い改めは必要だという回答を得た。でもstさんをその後も、shalomさんが悔い改めは必要ないと言ったといいつづけている。
shalomさんが過去にそういう発言したのか、そう誤解される発言したのか、それともstさんがそう思い込んでいるだけなのかは、私は判断する材料は持たない。ただshalomさんが悔い改めは必要だと明言しても、stさんの見解は修正されなかったとはいえる。
・stさんは、たびたび、「私の批判対象はshalomだ」という言い方をする。
ここから、stさんの目的は、真実の究明ではなく、相手の人格を否定することにあると察せられる。
それだから、shalomさんが間違った場合はもちろん、正しいことを言っていても、それを素直に認めることはなく、表面的にはいいことを言っても本音では悪いことを考えているにちがいないと邪推して、shalomさんの言う事、する事すべてを否定するのだろう。
ちなみに今は、楽山に対しても同じ扱いになっている。「私の批判対象は楽山だ」として、楽山の人格すべてを否定することにやっきになっている。
これに対して、私の立場をいうと、真実究明のための議論、対話なら参加する意義はあるだろうが、楽山のすべてにケチをつけて否定したいという悪感情に染まっている相手には、私から何を言っても無駄であろうし、そういう偏った主張は、良識を持つ読者には何らの影響も与えないだろうから、いちいち反論する必要もなく、stさんが正常な判断力を早く取り戻すことを祈りつつ、スルーするということになる。
・stさんは、shalomさん、易坊さん、楽山らが、自分の知らないことを書くと、インテリ気取り、知ったかぶりだと言ってケチをつけることが多い。こういうところは、自己の屈折したプライド、知的劣等感をさらけ出すことに躊躇ないように見える。
でも私は、自分がまだまだものを知らないという自覚はあるし、自分に新知識を与えてくれる人は好きである。私にもプライドや知的劣等感はあるけれども、それより知識欲、知への憧れの方が強い。shalomさんのように、その時々の話題に関連した聖書のことばを、さらっと言えるのはすごいと思う。これには向上心を刺激され、自分も勉強しよう、聖書のことを知りたいという気持ちになる。
一方、stさんの文章は自分の事は棚に上げて、人の悪口ばかりで読むのに苦労する。先日みたコメ欄では、shalomさんのポスター貼りのボランティア活動にさえケチつけているのには驚き、あきれた。現実に、世の中をよくしようと活動している人に対して、ネットであれこれ書くだけの人がケチつけているようだったので。
批判は必ずしも悪ではないと思う。自己研鑽に努めている人が意見するのは意義があるだろう。世のため人のための活動をしている人が、意見するのも意義があるだろう。仮にそれらができなくても、自分なりに努力している人の意見であれば、説得力があり、傾聴に値するだろう。でもキリスト者を自称しつつも、教会には行かない、聖書は通読してない、ボランティアも奉仕活動もしていない、そのつもりもないらしい人が、他人を批判したり、信仰について説教するというのはおかしい。そういう人にも言論の自由はあるだろうけれども、その意見は説得力は持たなかろうと思う。
この辺りの感覚、考え方は、stさんと私とでは全然合わないらしい。
・以上、経緯を述べるといったわりには、事実の提示だけでなく、個人的な意見、感想もたくさん挿入してしまったが、この件についての顛末は大体このようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。
・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。
・さらについでに、注意事項を一つ。
楽山がshalomさんと話してたら、stさんはshalomと話すならその仲間として批判するというようなことを言ってきた。今はその通り、楽山も批判対象となったらしい。
そんなら、楽山と話すなら楽山の仲間として攻撃するという発想もするんだろう。
この点、ご注意願います。
*心配無用(追記 2019.11.22)
こんな心配をしてたとは思わなかった。本気でこんなことを考えてるなら気の毒だ。
shalomさんと私が話をしてると、強引に割り込んできたし、人は人、自分は自分という風に、他に過干渉することもされることも回避する考え方に、猛烈に反発するのはそのせいかなと。
人恋しい人が、スルー推奨という考え方に賛同するわけもなかろと。
・stさんは、shalomさんをカルト呼ばわりするけれども、霊感商法をしたとか、献金詐欺をしたとか、自分を信じないと地獄に堕ちると脅したとか、そういう事実の指摘はない。
もっぱら偽善だとか、悔い改めがどうとか、自分の価値観、判断を振り回して、shalomさんにカルトのレッテルを貼るばかりで、客観的なカルトの基準と比較して、それに合致するからカルトだということはない。
そこで私は、藤倉善郎の「カルトの定義をめぐるあれこれ」を提示しつつ、カルト呼ばわりするなら、違法行為や人権侵害の事実を指摘するべきであって、それができないならカルト呼ばわりすべきでないことを指摘した。
これに対して、stさんの反論は、何かあってからでは遅いとのことだった。彼は何か悪いことをするに違いないから攻撃するというのは、明確な人権侵害だろうが、そんなことは気にしないらしい。
ちなみにstさんのいう「何か」とは、その後、shalomさんや楽山によって自分は消されるかもしれないという発言していることからすると、殺人事件を念頭に置いているらしい。
傍から見て、shalomさんに殺されるかもしれないというのは極端な被害妄想だし、そんな妄想を根拠にカルト呼ばわりするのはおかしな話だ。
・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。
それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。
stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。
・stさんは、楽山はクリスチャンになりすました、クリスチャン芝居をしたと非難した。
私は前々から自分はノンクリであること、無宗教であることを書いているので、なぜそういう話になるのか分からない。
・stさんは、今でもshalomさんが悔い改めは必要ないといったと非難し続けている。私はこの件について、shalomさんに確認したところ、悔い改めは必要だという回答を得た。でもstさんをその後も、shalomさんが悔い改めは必要ないと言ったといいつづけている。
shalomさんが過去にそういう発言したのか、そう誤解される発言したのか、それともstさんがそう思い込んでいるだけなのかは、私は判断する材料は持たない。ただshalomさんが悔い改めは必要だと明言しても、stさんの見解は修正されなかったとはいえる。
・stさんは、たびたび、「私の批判対象はshalomだ」という言い方をする。
ここから、stさんの目的は、真実の究明ではなく、相手の人格を否定することにあると察せられる。
それだから、shalomさんが間違った場合はもちろん、正しいことを言っていても、それを素直に認めることはなく、表面的にはいいことを言っても本音では悪いことを考えているにちがいないと邪推して、shalomさんの言う事、する事すべてを否定するのだろう。
ちなみに今は、楽山に対しても同じ扱いになっている。「私の批判対象は楽山だ」として、楽山の人格すべてを否定することにやっきになっている。
これに対して、私の立場をいうと、真実究明のための議論、対話なら参加する意義はあるだろうが、楽山のすべてにケチをつけて否定したいという悪感情に染まっている相手には、私から何を言っても無駄であろうし、そういう偏った主張は、良識を持つ読者には何らの影響も与えないだろうから、いちいち反論する必要もなく、stさんが正常な判断力を早く取り戻すことを祈りつつ、スルーするということになる。
・stさんは、shalomさん、易坊さん、楽山らが、自分の知らないことを書くと、インテリ気取り、知ったかぶりだと言ってケチをつけることが多い。こういうところは、自己の屈折したプライド、知的劣等感をさらけ出すことに躊躇ないように見える。
でも私は、自分がまだまだものを知らないという自覚はあるし、自分に新知識を与えてくれる人は好きである。私にもプライドや知的劣等感はあるけれども、それより知識欲、知への憧れの方が強い。shalomさんのように、その時々の話題に関連した聖書のことばを、さらっと言えるのはすごいと思う。これには向上心を刺激され、自分も勉強しよう、聖書のことを知りたいという気持ちになる。
一方、stさんの文章は自分の事は棚に上げて、人の悪口ばかりで読むのに苦労する。先日みたコメ欄では、shalomさんのポスター貼りのボランティア活動にさえケチつけているのには驚き、あきれた。現実に、世の中をよくしようと活動している人に対して、ネットであれこれ書くだけの人がケチつけているようだったので。
批判は必ずしも悪ではないと思う。自己研鑽に努めている人が意見するのは意義があるだろう。世のため人のための活動をしている人が、意見するのも意義があるだろう。仮にそれらができなくても、自分なりに努力している人の意見であれば、説得力があり、傾聴に値するだろう。でもキリスト者を自称しつつも、教会には行かない、聖書は通読してない、ボランティアも奉仕活動もしていない、そのつもりもないらしい人が、他人を批判したり、信仰について説教するというのはおかしい。そういう人にも言論の自由はあるだろうけれども、その意見は説得力は持たなかろうと思う。
この辺りの感覚、考え方は、stさんと私とでは全然合わないらしい。
・以上、経緯を述べるといったわりには、事実の提示だけでなく、個人的な意見、感想もたくさん挿入してしまったが、この件についての顛末は大体このようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。
・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。
・さらについでに、注意事項を一つ。
楽山がshalomさんと話してたら、stさんはshalomと話すならその仲間として批判するというようなことを言ってきた。今はその通り、楽山も批判対象となったらしい。
そんなら、楽山と話すなら楽山の仲間として攻撃するという発想もするんだろう。
この点、ご注意願います。
*心配無用(追記 2019.11.22)
こんな心配をしてたとは思わなかった。本気でこんなことを考えてるなら気の毒だ。
シャロームと楽山のような易坊類は、今後、非合法な手段を考えるかもしれません。そうなると、カルト組織であるなら、私は無力なので、姿を消してしまうのかな・・とか考えています。今回の記事は長かったけど、一応、ここまでとします。
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html
これについては、私はカルト組織など持たないし、誰かを消そうという考えもありませんと明確に否定しておく。stさんが身近にいる全然関係ない人のことを、こいつが楽山に違いないと思い込んで、やられる前にやれとばかりに先制攻撃を仕掛けるようなことがあってはならないと思うので…。
*テーマ(追記 2019.11.22)
これは、shalomさんのコメントだけど、読書感想文を批判するなら、当該書籍を読んでからにすべきだろうというのは正論と思う。
*テーマ(追記 2019.11.22)
これは、shalomさんのコメントだけど、読書感想文を批判するなら、当該書籍を読んでからにすべきだろうというのは正論と思う。
16. st5402さん おはようございます2019年11月18日 11:42
[省略]
あなたは楽山さんが読まれた本の読書感想文なのに、
あなたはその本を読まずに楽山さんの読書感想文の内容について
批判し、人格まで中傷しているのではありませんか。
[省略]
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html
あと、楽山日記の主要テーマには、幸福の科学(HS)教義の相対化及び無効化によるマイコン解除もあるので、その手の記事は、HS教義の知識があった方が分かりやすいとは言える。
HSは自分らは自由な団体だと誇るけど、実際にはタブーがすごく多い。あの映画は地獄的だから見たらダメ、あの著者の本は波動が悪いから読んだらダメ、あの思想は間違いだから信じたらダメ…云々。このタブーは、退会と同時にすっぱり忘れられればいいけど、なかなかそうはいかないところがつらいところだ。だから私は、そこのところを狙って書いている。
楽山日記は、一見HSとは無関係な映画、小説、ドラマなどを多く取り上げるお気楽ブログに見えることもあるかもしれなけれども、ここで取り上げるエンタメ作品の多くは、自分が見て、味わって、HSのタブーを乗り越えるのに役立ったもの、または役立つと見込まれるものだ。思想、宗教がらみの話題であれば、その傾向はさらに強まる。だから楽山日記で取り上げた作品をなぞっていけば、自然とHS教義を相対化、無効化して、マイコン解除に至るようになってる。誰もがそうなるかは断言できぬが、少なくとも私はそうだったし、私と似た個性、状況にある人もたぶんそうなるだろう。
次に、もう少し具体的な話をすると、HSの根幹には、大川隆法に対する信仰がある。大川隆法は人にはできないことができるから、人を超えた存在であり、仏陀であり、大救世主である、したがって、一般信者には、人を超えた大川隆法の心を理解できるわけもなく、ただひたすらに信じてついてゆかねばならぬということになっている。ざっくり言えば、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムという信仰スタイルだ。それだから遠藤周作のイエスは無力でみじめな存在だったという考え方は、HSの信仰観とは相容れぬものであり、否定される。
でも遠藤周作の「イエスの生涯」などを読めば、氏は奇跡を信じない現代人でも、イエスを神と信じることができる道を示しているのが分かる。イエスは奇跡は起こせず、無力だった、病者と交われば病気をうつされ死ぬかもしれなかった、被差別者と交われば自身も差別されるかもしれなかった、しかしそれでも彼らに寄り添わないではいられなかった、そうまでして寄り添った彼らに裏切られても、恨み言一つ言わなかった、これこそが愛ではなかろうか、神は愛であるとすれば、そこに神がおられたということではないかと。
こんなふうに遠藤周作の考え方は、イエスは奇跡をおこない、権威ある者として説法できたから神だというのでなく、より弱く、みじめで、非力で、無力であればあるほどに、身を捨てて隣人を愛し続けた精神性の尊さは増し、それゆえにイエスは神としか考えられないという信仰になっていて、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどを克服しており、大川隆法崇拝という偶像崇拝から脱却するきっかけになりえる思想になっている。
中村元の原始仏教もこれと同じ構図だ。HSでは、大川隆法の過去世は仏陀であり、偉大な神通力を持っていて、人を超えた存在だったとしている。だから仏陀の神通力や、奇跡話やらは、後世の神格化の過程で生まれた神話伝説であって、現実の仏陀はそうではなく、その人格的な高貴さによって尊崇されたのだろうという中村元は批判されることになる。
でも私に言わせれば、中村元の考え方は、遠藤周作の考え方と同様に、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどの偶像崇拝をしりぞけ、HSのマイコン解除に益ありということになる。
先の遠藤周作と中村元についての記事には、以上のような背景があるし、こういうHSの知識があれば、よりその意図が分かると思う。もっともこの辺りの事情は、HSとは無関係な人は知る由もなかろうし、そんなことは気にせず読んでもらって構わないけど、一応知っとく方が深く読めるというのは言える。
あと中村元の読書感想文にある、信仰を捨てよというのは、中村元が翻訳した原始仏典にある有名な言葉だ。釈迦がこの言葉を言ったとして、どういう意味で言ったのかは議論があるようで、自分にとっても興味ある言葉になっている。だから記事の中にしれっと入れといた。私は文字を詰めて書いた記事は、分かる人には分かればいいと考え、ある程度の知識量がある読者を想定して書いてる。一般読者は何も感じず読み飛ばしてしまうが、ある程度ものを知っている読者であれば楽山はあのことを言ってるんだなとニヤリとするだろう書き方。「赤毛のアン」にはさりげなくシェイクスピアなどが埋め込まれているというし、映画作品には、一般人には分からないが、映画ファンにはすぐに気づけるオマージュが仕込んであることがあるが、私はそういうのは好きなので。
*生きにくさ(追記 2019.11.23)
率直に言って、stさんを見てると、こんな感想を持つ。被害妄想があるなら逃げればいいのに、やたら攻撃してくる。嫌いなら離れればいいのに、くっついてくる。被害者を出さないためにカルトを批判するというなら優しい人だろうと思えば、自分の思い通りにならない相手にはすぐ怒る。
ずいぶんと屈折してるし、これだと相当に生きにくいだろうと気の毒に思う。でもこういう人は、私が知らなかっただけで、案外にいるらしい。ツイートにこんなのがあった。
HSは自分らは自由な団体だと誇るけど、実際にはタブーがすごく多い。あの映画は地獄的だから見たらダメ、あの著者の本は波動が悪いから読んだらダメ、あの思想は間違いだから信じたらダメ…云々。このタブーは、退会と同時にすっぱり忘れられればいいけど、なかなかそうはいかないところがつらいところだ。だから私は、そこのところを狙って書いている。
楽山日記は、一見HSとは無関係な映画、小説、ドラマなどを多く取り上げるお気楽ブログに見えることもあるかもしれなけれども、ここで取り上げるエンタメ作品の多くは、自分が見て、味わって、HSのタブーを乗り越えるのに役立ったもの、または役立つと見込まれるものだ。思想、宗教がらみの話題であれば、その傾向はさらに強まる。だから楽山日記で取り上げた作品をなぞっていけば、自然とHS教義を相対化、無効化して、マイコン解除に至るようになってる。誰もがそうなるかは断言できぬが、少なくとも私はそうだったし、私と似た個性、状況にある人もたぶんそうなるだろう。
次に、もう少し具体的な話をすると、HSの根幹には、大川隆法に対する信仰がある。大川隆法は人にはできないことができるから、人を超えた存在であり、仏陀であり、大救世主である、したがって、一般信者には、人を超えた大川隆法の心を理解できるわけもなく、ただひたすらに信じてついてゆかねばならぬということになっている。ざっくり言えば、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムという信仰スタイルだ。それだから遠藤周作のイエスは無力でみじめな存在だったという考え方は、HSの信仰観とは相容れぬものであり、否定される。
でも遠藤周作の「イエスの生涯」などを読めば、氏は奇跡を信じない現代人でも、イエスを神と信じることができる道を示しているのが分かる。イエスは奇跡は起こせず、無力だった、病者と交われば病気をうつされ死ぬかもしれなかった、被差別者と交われば自身も差別されるかもしれなかった、しかしそれでも彼らに寄り添わないではいられなかった、そうまでして寄り添った彼らに裏切られても、恨み言一つ言わなかった、これこそが愛ではなかろうか、神は愛であるとすれば、そこに神がおられたということではないかと。
こんなふうに遠藤周作の考え方は、イエスは奇跡をおこない、権威ある者として説法できたから神だというのでなく、より弱く、みじめで、非力で、無力であればあるほどに、身を捨てて隣人を愛し続けた精神性の尊さは増し、それゆえにイエスは神としか考えられないという信仰になっていて、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどを克服しており、大川隆法崇拝という偶像崇拝から脱却するきっかけになりえる思想になっている。
中村元の原始仏教もこれと同じ構図だ。HSでは、大川隆法の過去世は仏陀であり、偉大な神通力を持っていて、人を超えた存在だったとしている。だから仏陀の神通力や、奇跡話やらは、後世の神格化の過程で生まれた神話伝説であって、現実の仏陀はそうではなく、その人格的な高貴さによって尊崇されたのだろうという中村元は批判されることになる。
でも私に言わせれば、中村元の考え方は、遠藤周作の考え方と同様に、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどの偶像崇拝をしりぞけ、HSのマイコン解除に益ありということになる。
先の遠藤周作と中村元についての記事には、以上のような背景があるし、こういうHSの知識があれば、よりその意図が分かると思う。もっともこの辺りの事情は、HSとは無関係な人は知る由もなかろうし、そんなことは気にせず読んでもらって構わないけど、一応知っとく方が深く読めるというのは言える。
あと中村元の読書感想文にある、信仰を捨てよというのは、中村元が翻訳した原始仏典にある有名な言葉だ。釈迦がこの言葉を言ったとして、どういう意味で言ったのかは議論があるようで、自分にとっても興味ある言葉になっている。だから記事の中にしれっと入れといた。私は文字を詰めて書いた記事は、分かる人には分かればいいと考え、ある程度の知識量がある読者を想定して書いてる。一般読者は何も感じず読み飛ばしてしまうが、ある程度ものを知っている読者であれば楽山はあのことを言ってるんだなとニヤリとするだろう書き方。「赤毛のアン」にはさりげなくシェイクスピアなどが埋め込まれているというし、映画作品には、一般人には分からないが、映画ファンにはすぐに気づけるオマージュが仕込んであることがあるが、私はそういうのは好きなので。
*生きにくさ(追記 2019.11.23)
率直に言って、stさんを見てると、こんな感想を持つ。被害妄想があるなら逃げればいいのに、やたら攻撃してくる。嫌いなら離れればいいのに、くっついてくる。被害者を出さないためにカルトを批判するというなら優しい人だろうと思えば、自分の思い通りにならない相手にはすぐ怒る。
ずいぶんと屈折してるし、これだと相当に生きにくいだろうと気の毒に思う。でもこういう人は、私が知らなかっただけで、案外にいるらしい。ツイートにこんなのがあった。
他人から猛烈に攻撃されると、自分はそうされても仕方ない悪いことをしたのかもしれないと落ち込んでしまいそうになるけど、今はネットがあるおかげで、やたらと他人を攻撃する人についての知識を広く共有できて便利だ。ネットは本当にありがたい。もっともネットのせいで、その種の人と出くわす機会も増えたかもしれないが。
ところで、被害妄想について検索したらこのページが出てきた。stさんにはいろいろと当てはまるところはあるようだ。ちょっとしたことで激怒する。相手を敵と思い込んで攻撃する。自分のブログは見られてる、自分は注視されてると思い込んでいるせいか、全然関係ないことも自分への嫌がらせ、攻撃だと決めつける。自分と友好的な相手でも陰に隠れて敵と秘密の遣り取りをしているのではと疑う。悪の組織が自分を迫害しようとしていると思い込む。さして根拠もないのに性急に結論を出し、いったんこうと思い込んだらそれに反する証拠が出てきても訂正不能となる等々。お節介かもしれないが、もしまだ専門家に相談していないならばそれを検討してみてはどうかと思う。
*動機(追記 2019.11.23)
ちなみに今回の記事を書こうと思ったのは、下のやり取りを見たから
だ。shalomさんは、vさんはstさんの攻撃で深く傷つけられたと語ってる。
*反省(追記 2019.11.24)
今さらながらに気づいたが、自分はまた同じ失敗を繰り返したようだ。上に述べた通り、今回の記事は、将来またvさんのような被害者が出ないように注意喚起したり、もし不幸にして被害者が出てしまったらその手助けになればと思って書いたわけだが、よく考えてみれば自分は情に流され、取り越し苦労をし、要らぬことをしてしまったかもしれぬ。
こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。
でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。
ついでに書くと、以下の考え方も、余計なことに手を出してしまいがちな自分にはどうしても必要なものだ。
「人の心は変えられない。変えられるのは自分の心だけだ」
「他人の事をとやかく言う前に、まず自分の事をしなさい」
「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ(ニーバー)」
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)」
「修身斉家治国平天下」
やっぱり自分は、他人のことを心配するより先に、まずは自分づくりに専念しよう。といっても、またすぐに情に流され、自分のことより他人の事に手を出してしまうのだろうけれども、それでも自分づくりに専念しようという意識は常に忘れないようにしよう。善く生きようと努力している人は、何も語らずとも、その生き様によって周囲の人々を感化し、善を広めるものだけど、自分もそんな人になりたい。
*付け足し修正(2019.12.8)
今日、マグマリさんのブログを見た。
・、、、自分が正しいと肯定するのは大事だけど
これは他の人のことを言ってるんだろうと思ったけど、考えて見れば、この記事ではヨシュアさんには触れても、マグマリさんには触れてないのだった。この記事は誰に向けてのものかはよく分からないが、とりあえずは上の経緯説明で、マグマリさんのことも少し書き足してみた次第である。
ところで、被害妄想について検索したらこのページが出てきた。stさんにはいろいろと当てはまるところはあるようだ。ちょっとしたことで激怒する。相手を敵と思い込んで攻撃する。自分のブログは見られてる、自分は注視されてると思い込んでいるせいか、全然関係ないことも自分への嫌がらせ、攻撃だと決めつける。自分と友好的な相手でも陰に隠れて敵と秘密の遣り取りをしているのではと疑う。悪の組織が自分を迫害しようとしていると思い込む。さして根拠もないのに性急に結論を出し、いったんこうと思い込んだらそれに反する証拠が出てきても訂正不能となる等々。お節介かもしれないが、もしまだ専門家に相談していないならばそれを検討してみてはどうかと思う。
*動機(追記 2019.11.23)
ちなみに今回の記事を書こうと思ったのは、下のやり取りを見たから
だ。shalomさんは、vさんはstさんの攻撃で深く傷つけられたと語ってる。
[省略]これに対して、stさんは、それはshalomが原因だ、shalomは何でも人のせいにするといいつつ、すべてをshalomさんのせいにしてる。vさんについても、shalomさんの味方をしたから批判したとか何とかいって、vさんに落ち度があったからだとしてる。自分も言い過ぎたようで申し訳ないことをしたという謝罪反省の言葉は見当たらない。これには驚き、あきれずにはいられないし、これからも同じ事を繰り返すんだろうなと思わずにはいられない。だからこの記事を書くことにしたわけである。将来、stさんに標的にされ、粘着攻撃されて難渋してる人が、この記事を見つけて、いくらかでも楽になってくれたらうれしい。
vさんは神学者、哲学者として福音を土台として人間学的な聖書理解をしようとしておられました。イエスの死とよみがえり、聖霊信仰もその根底にありました。そのことで、あなたの激しい批判の的にされ、中傷され、人格否定をされ苦しまれたのでしょう。
あなたは謝罪したようなコメントもされていたようですが、
あなたの姿勢はその時から一貫して変わっていないようですね。
思い当たるのではありませんか?
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4173311.html#comments
*反省(追記 2019.11.24)
今さらながらに気づいたが、自分はまた同じ失敗を繰り返したようだ。上に述べた通り、今回の記事は、将来またvさんのような被害者が出ないように注意喚起したり、もし不幸にして被害者が出てしまったらその手助けになればと思って書いたわけだが、よく考えてみれば自分は情に流され、取り越し苦労をし、要らぬことをしてしまったかもしれぬ。
こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。
でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。
ついでに書くと、以下の考え方も、余計なことに手を出してしまいがちな自分にはどうしても必要なものだ。
「人の心は変えられない。変えられるのは自分の心だけだ」
「他人の事をとやかく言う前に、まず自分の事をしなさい」
「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ(ニーバー)」
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)」
「修身斉家治国平天下」
やっぱり自分は、他人のことを心配するより先に、まずは自分づくりに専念しよう。といっても、またすぐに情に流され、自分のことより他人の事に手を出してしまうのだろうけれども、それでも自分づくりに専念しようという意識は常に忘れないようにしよう。善く生きようと努力している人は、何も語らずとも、その生き様によって周囲の人々を感化し、善を広めるものだけど、自分もそんな人になりたい。
*付け足し修正(2019.12.8)
今日、マグマリさんのブログを見た。
・、、、自分が正しいと肯定するのは大事だけど
これは他の人のことを言ってるんだろうと思ったけど、考えて見れば、この記事ではヨシュアさんには触れても、マグマリさんには触れてないのだった。この記事は誰に向けてのものかはよく分からないが、とりあえずは上の経緯説明で、マグマリさんのことも少し書き足してみた次第である。
でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。」
カウンセリングの世界ではよく過去と他人は変えられないと言われますが、
自分の無力感や敗北感、挫折感に苦しめられている人は変えられない過去と他者を批判して、自分の苦しみを過去や他者に転嫁して自分を守ろうとしてしまうようですね。
「自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。」…ということの原因も自他の区別、課題の区別ができないために陥りやすい要因のようですね。
なかなか誰もが俺は、私は大丈夫とは言えない罠だと思います。
ですから他者を批判せずにはおられない人も自分と他者との区別、課題の区別ができないために、アドラー心理学の自他の区別、課題の区別ができずにいたずらにアドラー心理学も批判せずにはおられないのですね。
それがst節(ブシ)の妄想的理路、印象操作の本質なのですね。
shalom!
tam
がしました