*まえおき
前の記事では、これまでの経緯説明として、stさんは当初は楽山に友好的だったが、意見の違いが出てきたら、楽山に粘着批判するようになったと書いた。
でもそれは自分の記憶で書くだけだったので、今回はその証拠資料を提示しとく。
前の記事では、これまでの経緯説明として、stさんは当初は楽山に友好的だったが、意見の違いが出てきたら、楽山に粘着批判するようになったと書いた。
でもそれは自分の記憶で書くだけだったので、今回はその証拠資料を提示しとく。
*はじめの頃
まず、stさんは当初は楽山に友好的だったということに関しては、これらの記事のコメント欄を読めば分かると思う。
やりとりをスクショすれば、こんな感じだ。
(スクショは、ライブドアブログに移行する前のyahooブログ時代のものです)
(スクショは、ライブドアブログに移行する前のyahooブログ時代のものです)
これらを御覧いただければ、stさんははじめは楽山に対して、丁寧、謙虚、友好的だったということを了解していただけると思う。
*もう一つ
上は楽山日記のコメント欄でのやりとりだけども、stブログのコメント欄でのやりとりは、マリアさんが保存してくれていた。
(注 「自由=楽山」です)
https://magtaranomaria.blog.fc2.com/blog-entry-8041.html
当時の状況としては、ヨシュア、マリアさんらと、stさんは対立していて、自分はstさん寄りの立場にあった。
そのため、マリアさんらからは、楽山(自由)の正体はstだと思われていた。これは誤解なのだけど、マリアさん側からはそのくらい近い関係に見えていたのだろうと思う。
ちなみに、マリアさんのst批判は、2018年7月以降に連続して発表されていた。ざっとみたところでは記事は当時のままのようだ。修正削除して、経過を分からなくさせるよりは、そのまんま保存してあるのはいいことだと思う。
そのため、マリアさんらからは、楽山(自由)の正体はstだと思われていた。これは誤解なのだけど、マリアさん側からはそのくらい近い関係に見えていたのだろうと思う。
ちなみに、マリアさんのst批判は、2018年7月以降に連続して発表されていた。ざっとみたところでは記事は当時のままのようだ。修正削除して、経過を分からなくさせるよりは、そのまんま保存してあるのはいいことだと思う。
・アブラハム、イサクをささげる時、。
・追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
・あらぁ、面白い、反論してたのね
・再々追記 呆れた。
・人間ならば、、こうであるべき、というのならば、
こちらは楽山ブログだけど、ここのコメント欄では、楽山(自由)はst寄りにすぎると批判されてる。
・追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
・あらぁ、面白い、反論してたのね
・再々追記 呆れた。
・人間ならば、、こうであるべき、というのならば、
こちらは楽山ブログだけど、ここのコメント欄では、楽山(自由)はst寄りにすぎると批判されてる。
・st自由同一人物説について、再び。(およそ、一月後れ)
*過渡期
stさんと間で、意見の違いがだんだんと明らかとなり、微妙な関係になっていく過程については、この辺りのコメント欄を見れば分かると思う。
(yahoo!ブログからの移行時に、最後の20コメントしか移せなかったので、それ以前のコメントは記事末尾にコピペしておいた)
これらの記事、コメントは時系列に並んでいるわけではなくて、少々ごちゃごちゃしているが、ざっと読めばおよその流れは把握できると思う。
*敵と認定される
*敵と認定される
この記事のコメント欄では、stさんの楽山攻撃が始まっている。
まずはこのあたりから、shalomさんに普通に接してはいけないと怒られはじめている。
ここではshalomさんには挨拶するなと念を押されている。もしそうすれば批判するとも。
シャロームがもし私ところに挨拶でも入れてきたら、何を気軽に挨拶しているんだと始めて、それこそ10コメくらいの批判レスになるところです。
自由さんは、社交で話題を逸らせるというシャロームの手練手管に、社交を返しています。このコメントも記事になるでしょうが、既に今日の記事にも表れていますが、やむを得ず、自由さんのコメントも批判対象になってゆきます。
2018/12/27(木) 午後 10:14st5402jp返信する
シャロームさんとの挨拶については、
私は、人との付き合いでは、できるだけ穏和、友好的でありたいと思ってます。前評判はどうあれ、はじめから拒否するようなことはしたくないなと…。
そういうわけで、シャロームさんが普通に接してくるなら、こちらも普通に接することになってます。
2018/12/29(土) 午前 8:15[ 楽山 (自由) ]返信する */
>できるだけ穏和、友好的でありたいと
>シャロームさんが普通に接してくるなら、
>こちらも普通に接することになってます
私は、それが、決して普通ではない、異常だと、ずっと言っているわけですが・・・無駄のようです
2018/12/29(土) 午後 0:31st5402jp返信する
ここではshalomさんには挨拶するなと念を押されている。もしそうすれば批判するとも。
発言を控えるのは自由さんの自由ですが、シャロームの挨拶に対して、シャロームへの挨拶を返すことは、シャロームに好意的に関わることを意味します。コメント書きたくて飢えているシャロームは、図に乗るでしょうから、私は苦言を呈することになります。2019/1/3(木) 午後 8:24st5402jp
この辺りでは、はっきり敵認定されている。
すっかり、幸福の心理学アドラー教ですね。
幸福のモンスター、シャロームと同軸だったとは。
2019/1/3(木) 午前 9:10st5402jp
どうもこの記事が逆鱗に触れたらしい。
そんなわけでこれ以後は、shalomさんに続いて、楽山も主要ターゲットとなっていった。
*現在
現在はどうなっているかといえば、stさんは楽山攻撃を続けるうちに、楽山から刺客を送り込まれるのではないかという妄想にとらわれるようになったらしい。
これは本当に気の毒な状態だ。前の記事でも書いたけど、私はカルト組織は持たないし、誰かを消そうとすることもありませんのでご安心くださいと繰り返しておく。
*実際のところ
ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。
yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。
知名度の高い人気ブログであれば、批判、炎上によってアクセス殺到ということもあるかもしれないが、楽山日記のような閑散ブログの場合は、もとから興味を持っている人は稀であるし、そういう楽山の批判が書かれたり、コメ欄炎上したところで、誰も読まないということなのだろう。
また仮にわずかながらも楽山日記を愛読してくれる人がいたとしても、そういう人はstさんとは考えは合わないだろうから、stさんの楽山批判を読んでもそれに影響される人はいないだろう。
ようはstさんが、楽山がああだこうだといくら書いても、現実は変わらないということ。おそらくこれは、shalomさん、マリアさんについても同じだ。stさんがマリア批判をしたところで、それ以降もマリアさんとこは人気ブログであり続けてるし、shalom批判をしたところでshalomさんが皆から糾弾されるということもないし、shalomとの会話を拒否する人もいないだろう。
私から見た現実はこのようなものではある。stさんは、マリアさんのブログでは下のような決意表明を書いていたし、命がけでカルトと戦っているつもりかもしれないけど、そろそろ現実に気づいてもいい頃ではないかと思う。
https://magtaranomaria.blog.fc2.com/blog-entry-7979.html
*論点整理(悔い改め)
ところで、shalomさんは悔い改めを必要としたかどうかが争点になることが度々あるが、これについてはshalomさんは必要だとはっきり書いていた。
コメント欄を見直していたら、その個所を見つけたので参考として貼っておく。
「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。
「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
2018/12/12(水) 午後 6:29[ shalom ]返信する
しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。http://mn266z.blog.jp/archives/17513083.html
そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
2018/12/12(水) 午後 6:30[ shalom ]返信する
以上、マリアさんとこの過去記事をみたら、さまざまな参考資料が貼ってあってよかったので、自分も記憶で書くだけでなく、参考資料も添付した記事を書いてみた次第である。
楽山さん stさんは碌に聖書を読んでいないのですから、所詮我流の信仰でしかないのですから、論争しても徒労になるだけですよ。
聖書に聞くことでしかイエスさまに出会うことも信じることも出来ないのです。
弟子たちはイエスさまがゲッセマネの園で捕えられた時、イエスさまを見捨てて逃げたのです。
でも、ペテロは大祭司邸の庭で裁かれため引き立てられて行かれるイエスさまのあとを顔を隠しながら、隠れるようにそ~っとについていったのです。
でも裁かれるイエスさまを見つめているペテロを大祭司邸の女中が見つけ、あんたはあのイエスの仲間だろうとそこにいる人たちにわかるように大声で聞いたのです。そんなことが三度もあり、とうとうペテロはイエスを知らない、関係ないとイエスさまを呪ってしまい、その場から逃げ出してしまったのです。
門外に出ようとしてふとイエスさまの方を見ると、イエスさまがペテロを静かなまなざしでじ~っと見つめておられることに気づき、たまらずペテロは泣いたのです。
その後、弟子たちは戸を固く締め切った部屋に人々を恐れ、また自分たちの弱さ、醜さに打ちひしがれて閉じこもっていたのです。
大祭司はイエスさまが人々を惑わし、神を汚すものだとして、人々の訴えもあり、十字架につけることにしたのです。
しかし、当時のイスラエルには死刑にする権限がなかったので、ローマ総督ピラトによって死刑の判決をさせ、執行しなければならなかったのです。(領主ヘロデのもにも連れて行かれるのですが省略しました)
そこでイエスさまはローマ総督ピラトの裁きに座に引き立てられたのです。ところがピラトにはイエスさまを死刑にする罪が見当たらないので、再三赦そうとするのです。(人々の訴えが妬みのために訴えていることがピラトにはわかっていたのです。)
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