ツイッターで、次のツイートを見つけた。

 これは同感だ。やりすぎでもなく、やらなすぎでもなく、丁度よいところを見つけることが肝要であって、その程度は時と場合でちがうというのは本当にその通りだ。
 たとえば、よくある譬え話でいえば、弦楽器では弦をはりすぎれば切れてしまうし、ゆるめ過ぎれば音にならず、程よい強さではる必要があるという話がある。機械の場合であれば、ネジはきっちり締めるのが基本であろうが、それでもあまりに締め過ぎたら壊れてしまうし、時と場合によってはあえてゆるめにしておくべきところもある。
 人間の場合も、勤勉は良い事であろうがあまりに極端すぎると厳格にすぎて窮屈だろう。また適度なリラックスは大切なことだが、緊張感がなさすぎるのも困りものとなる。協調性は有用だが、かといって自分がなさすぎるのも空しい。でもいくら自分の意見を持っていたとしても、我が強すぎて、意地っ張りであれば、周囲は閉口させられるし、自分自身も疲れるだろう。
 この辺りのあんばいは本当に難しい。これらについては世間一般の標準的な基準もあろうが、それもその人の個性に応じて移動するのであろうからややこしい。なにかの宗教を信じていれば、その教義を絶対的な基準として判断することもできようが、そういうものがない身としてはその都度、その判断基準を手探りで探さなければならないのだから大変だ。
 そういえば、論語には「心の欲する所に従えども矩を踰えず」という言葉がある。これは一つの理想だと思う。程よいところを見つけるために、あれこれ試行錯誤したあげくに失敗することを繰り返している身としては、思うがままに振舞っても正道から外れないというのはうらやましい限りだ。