最近、『宗教的経験の諸相』を少しずつ読んでいるけれども、なかなかに難しい本だ。でも自分が関心を持っている問題に触れている箇所もあるので、そんなときは、実に愉快な心持ちがする。例えばこの部分など。
またこの手のことは中村元の本にもあったと思う。歴史上の人物としての仏陀と、信仰対象としての仏陀を分けて考えるというように。
似た考えとしては夏目漱石の『文学論』にもある。観念とそれによって起きる情緒とを分ける考え方だ。自分はこれによって、小説の文章は、事と心とを分けて書いてあり、その二つがよく整理されている文章ほど読みやすいと知ったのだった。
たとえば、「彼は走った。どうか、まにあってくれと祈らないではいられなかった」とか、「彼女は振り返った。そこに彼が立っていた。なぜ? 心にそんな疑問が浮かんだ瞬間、自分が泣いていることに気が付いた」というように。
純文学は型を崩すことを目指している面があるし、作家または作品によってさまざまな文体があるので全部が全部このようではあるまいが、少なくともこの傾向はあるだろうとは思う。
ちなみに自分は恥ずかしながら、宗教に凝っていたことがあるせいか、こういう区別がいまだ曖昧なところが無くもないことを告白せざるを得ない。宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって、「私はこのことを信じているのではありません。これが事実なんです」という風に〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある。どうも自分は宗教を止めた今でも、この癖が多少残っているらしい。この点よくよく気をつけたいと思う。
提出された事実についての結論は同じであっても、価値の根拠についてはめいめいの精神的判断が異なっているのであるから、それに応じて、啓示としての聖書の価値についても、人それぞれが見解を異にすることになるわけである。思い起こしてみれば、自分がこういうことをはじめて意識したのは渡部昇一の本を読んだときだった。タイトルは失念したが、聖書について学問的に研究している神父がおり、どのような歴史的事実が明らかになろうと、それによって信仰は揺らぐことはない云々というような話で、キリスト教とはすごいものだと感動したのだった。(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
またこの手のことは中村元の本にもあったと思う。歴史上の人物としての仏陀と、信仰対象としての仏陀を分けて考えるというように。
似た考えとしては夏目漱石の『文学論』にもある。観念とそれによって起きる情緒とを分ける考え方だ。自分はこれによって、小説の文章は、事と心とを分けて書いてあり、その二つがよく整理されている文章ほど読みやすいと知ったのだった。
たとえば、「彼は走った。どうか、まにあってくれと祈らないではいられなかった」とか、「彼女は振り返った。そこに彼が立っていた。なぜ? 心にそんな疑問が浮かんだ瞬間、自分が泣いていることに気が付いた」というように。
純文学は型を崩すことを目指している面があるし、作家または作品によってさまざまな文体があるので全部が全部このようではあるまいが、少なくともこの傾向はあるだろうとは思う。
ちなみに自分は恥ずかしながら、宗教に凝っていたことがあるせいか、こういう区別がいまだ曖昧なところが無くもないことを告白せざるを得ない。宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって、「私はこのことを信じているのではありません。これが事実なんです」という風に〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある。どうも自分は宗教を止めた今でも、この癖が多少残っているらしい。この点よくよく気をつけたいと思う。