『宗教的経験の諸相』を読んでいて、このくだりを読んだときは、思わず膝を打って「やった!」と言いたくなるほど共感できた。
書物というものは、おのれの運命の危機と闘いぬいた偉大な魂をもった人間の内的経験の真実の記録でさえあれば、たとえ多くの誤謬や激情が含まれていようとも、また人間の故意の作為がそこにあったとしても、りっぱに一つの啓示たりうる、ということを認めるものであれば、聖書ははるかに有利な評価を受けることであろう。

(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
 聖書には歴史的に実際にあった出来事が書いてあり、間違いは一切ないという考え方もあるだろうけれども、その記述はすべてが歴史的事実そのままであるとまでは言えないが、だからといってそのことを理由として宗教的古典的価値までも完全否定されるとは限らないという考え方もあるだろうし、自分はどちらかといえば後者寄りの立場なので、本書のこの箇所には大いに納得できる。
 またこの考え方は聖書以外でも通用するように思う。たとえば、物語は、間違いや破綻があったとしても、その価値を失うとは限らないというのは常識であろうし、音楽の方面では、「ベートーベンは偉大であったゆえに、その間違いも偉大であった」という批評があったりもする。おそらくこれらは真実の一端を示しているだろう。
 間違いは少ない方がいいし、間違いを減らす努力は必要ではあろうが、でもそれ以上にもっと大切なことがあり、これこそがそのものの最終的な価値を決定するというのは本当だと思う。


*追記 2020.3.1
 いつものことながら、書名は失念してしまったのだが、とある本で、聖書の記述に矛盾があることについて、それは意図的なものだとする話を読んだことがある。
 もし聖書に矛盾がなく、一つの正しい解釈が成立し得るとしたならば、必ずや自分は聖書を正しく解釈し、その戒めを守っているとして、自己を誇る輩が出てくるだろうから、あえて矛盾した記述をすることで、唯一の正しい解釈を打ち立てることができないようにし、そのような輩が出ないようにしているのだと…。
 自分はこれを読んで、聖書に矛盾があったとしても、さほど気にならなくなった。ただひとつ気になるのは、こういう考え方は、カルト教団が知れば悪用しそうだということだ。カルト教団は教義に疑問を持つ信者には、こんな風に説明して煙に巻きそうだなと。「教祖様の教えに、矛盾があるように思えることもあるかもしれません。でもそれは決して、教祖様がその場その場でいい加減なことを話していたからだということではありません。教えに矛盾があるのは理由があるのです。その理由とは…」
  宗教の聖典、教義に矛盾があったからといって、その宗教的価値が全否定されるわけではないのは当然ではある。でもこの考え方は時と場合によっては、本来それほどの価値がないものにさえ価値ありと誤認させることにもなりかねない危うさが含まれていなくもないわけで、この点は注意が必要である。