著者によれば、神秘体験の是非について判断しようとする際は、その後の体験者の心境が目安となるという。
幻影、幻聴、そのほか明らかに天来の賜物と考えられるものがあとに残す敬虔な気持ちこそ、それらのものが悪魔の惑わしの手だてでありえないことを私たちに確信せしめる唯一の印しなのである。自分は以前は、善良な人は天につながり、そうでない人はその限りではないという考え方を支持していたので、神秘体験については善良な人のそれは天からの賜物であろうが、そうでない人のそれは天からの賜物とは言えないだろうと信じていた。でも段々とこれに当てはまらない話もあることを知り、それが悩みの種になっていた。(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.39)
たとえば、使徒行伝によると、サウロはキリスト教徒を迫害していた頃に、神秘体験を経て改心したという。これは歴史的事実かどうかは分からないが、この話を読むと、天からの神秘体験は、正しい生き方をしている人に限定されるのではなく、神を信じ従う人々を迫害している人…つまり酷く間違ったことをしている人にも起こりえるということを示しているようであり、このことを考えるとどうも天からの神秘体験は、善良な人にしか起きないという考え方は正しくないのかもしれないと疑わないではいられなくなるのだ。
結局のところ、天からの神秘体験というものは、その者が善良であるかどうか、悪行を為しているかどうかに関わりなく、神に選ばれた者に起きるということなのかもしれぬ。とすると、神秘体験を評価しようとするときには、それがどのような人に起きたかではなく、著者の言うように、それが起きた後に、その人はどう変わったかで判断するのが賢明ということだろう。
精神世界の方面では、波長同通の法則だとか、引き寄せの法則だとか、さまざまな法則が語られているけれども、どんな法則をも超えることができる全能の神を思う時、そういうことは全て空しくなり、神の御心のままに…としか言えなくなるように思う。