最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。
このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
私は雪の言葉を聞いた。恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの?(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。
自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。
自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。