前々から、神義論、弁神論には興味があるのだけれども、本書でもそれについてチラリと触れていた。
一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。

(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.201)
 多神教的な世界を想定すれば、神々にはそれぞれ個性があって、善神もいれば、悪神もいる、温厚な神もいれば、戦好きの神もいるだろうから、そういう神々の影響下にあるこの世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ないことではある。
 でも愛と義を有する唯一の全能の神のみが存在すると仮定すると、その神はこの世の悪を一掃する能力を保持しつつも、それをしないのはなぜだろうという疑問を持たずにはいられなくなる。神にはある種の計画があり、あえて悪をそのままにしているのだろうという推測もできるけれども、そういう場合であっても児童虐待事件などをみれば、どんな計画にしろ、その完遂のために、愛ある全能の神が小さな子供を救おうと思えば救えるのに、それを見殺しにするというのはおかしな話であるし、もしその計画の実現のためにはどうしても子供の犠牲が必要だということであるならば、そういう神は愛深き神というよりも、ホラー映画に出てくる、自分の目的のために無垢な子供の血を欲する悪魔に近いということにもなる。
 またこの唯一の神からすべてははじまったのだとすると、善だけでなく悪についてもその起点は神にあったということになる。「人は神から与えられた自由をはき違えて、悪を為すようになった。これが悪の始まりである」という考え方もあるけれども、もし人が善きものとして創造され、その内には少しの悪も存在しなかったのであるならば、仮に自由を与えられても悪の犯しようはなかったはずである。悪の種を持たないものには悪は犯せるわけもない。とすると、人が自由を与えられて悪を犯したとすれば、人のなかにはもともと悪の種、悪の因が埋め込まれていたことであろうし、これは神が人を善きものとして創造したという話と矛盾する。
 こういう話は、興味ない人は本当に興味ないだろうけれども、自分としてはついついあれこれ考えないではいられなくなる話題ではある。これについては多神教的な世界観を持っていた頃はさほど関心もなかったのではあるが、一神教的な世界観を知り始めたら俄然関心を持たないではいられなくなったのである。一見したところでは一神教的な世界観は多神教的な世界観と比べてシンプルで分かり易いように見えることもあるけれども、実際には案外にやっかいな世界観だなと思う。