恥ずかしながら、自分は気分屋なところがあるので、こういう指摘はちと耳に痛いものがある。
健全な心の情熱家が悪の存在そのものを無視するにいたるように、憂鬱性の人間はいかなる善であろうと、心ならずも、その存在をことごとく無視してしまわずにはいられない。

(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、pp.219-220)
 あまりにも幸せ過ぎると、他人の不幸に気づきにくくなったりするだけでなく、自分に向けられた悪意にさえ鈍感になることはあるものだ。俗にいう、平和ボケなどは、まさにそんな状態だろう。
 またこれとは反対に、不幸の最中にあるときは、他者の厚意が信じられなくなるというのはいかにもありがちなことではある。相手が親切心から気遣っているのを、悪意によるものだと勘違いして激怒したりなど…。
 大概の人は、自分は物事を客観的かつ公平に見て判断しているつもりであろうし、少なくともそうありたいと努めているのだろうけれども、現実には自分の精神状態によって偏った判断をしてしまうことは少なくないだろうし、残念ながらそれが人というものなのだろう。
 もちろんこれは自分も例外ではない。しかもそれを承知でいながら自分は客観的かつ公平に判断していると自惚れているのだから始末が悪い。こういう自分の至らなさは決して忘れないようにしたい。自分のことは棚の上において、人のことばかり責める奴にはなりたくないので。