ここでいう健全な心うんぬんというのは、本来、悪は無いという光明思想的な考え方のことらしいが、この文章からすると著者はこれを決して高くは評価していないようだ。
健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いない。なぜなら、健全な心が認めることを断固として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.247)
著者は、本来悪は無いという健全な心の持ち主が信じる思想よりも、悪の存在を認め、そこに意義を見出し、それによって深い真理に到達しようとする考え方を支持しているらしい。
また厭世的であることは必ずしも厭うべきことではなく、宗教には不可欠な要素であるともしている。
また厭世的であることは必ずしも厭うべきことではなく、宗教には不可欠な要素であるともしている。
哲学の立場としては、悪い事実も合理的な意義をもっているし、悲しみや苦しみや死に対して、なんら積極的、能動的な注意を払わない健全な心の体系は、少なくともそれらの要素をもその領域内に取り入れようと努める体系よりも、形式的にはずっと不完全である、という仮定に立つべきものであることを述べておこう。著者の意見はもっともであるように思える。現実の悲劇から目を背け、自分の幸福な空想に浸っているだけの楽観論は単なる見当違いの思い込みにすぎないものだ。それよりは不条理な現実を直視し、それを正面から受け入れる方がよほど潔く、尊くもある。
したがって、もっとも完全な宗教は、厭世的要素がもっともよく発達した宗教であるように思われる。もちろん、そういう宗教のなかで私たちにもっともよく知られているのは、仏教とキリスト教である。(同上、pp.249-250)
ただここで少々疑問に思うのは、こういう厭世的な立場と宗教とは両立しうるのかどうかということだ。自分からすると、厭世とは一切は無意味だとするものであり、宗教はその反対にすべてに意味があるというものであろうし、こういう宗教の側からは人生の一時期に厭世的になるのには何らかの意味があるとして宗教と厭世を矛盾なく説明できるかもしれないが、厭世的立場からすれば、宗教を含めて一切のものに意味はないとするのだろうから両者を両立させるのは不可能のように思える。仏教にしても厭世的な要素は豊富ではあろうが、出家、解脱には大きな意味を見出していて、このところは厭世に徹しているわけでもない。
著者は講義録の中で、それまで信じていたことが信じられなくなった人、ある日突然に一切は無意味だという思いにとらわれ苦しめられる人などの事例を紹介してはいるが、著者はこういう厭世的悲観的になること自体またはそこに留まることに価値を認めるというよりも、こういう厭世的悲観的な心境を通過することに意義を見出しているようである。これを経験せずに楽観的であり続けるよりも、極度に厭世的悲観的な状態に落ち込むという魂の危機を経た方がより深い真理を体得できるというように…。
とすると、著者は厭世的になることから生じる果実の価値を認めているだけで、厭世的であることそのものの価値を認めているわけではなさそうだ。ここのところは若干細かい理屈ではあるが、著者の考えがこのようなものだとすると、これは厭世的な心境から脱した人にとっては福音であろうけれども、そこに留まり、抜け出す見込みのない人にとっては随分と遠くに針の先程の弱弱しい光が見えた気がするだけでそれほどありがたい話とは思えないということになりそうだ。
最後に蛇足ながら、これは厭世についてだけでなく、無神論についても同じことが言えるかもしれない。無神論を通過しない信仰は、厭世を通過しない信仰と同じくどこか狭いものがあり、不完全ではないかと。
著者は講義録の中で、それまで信じていたことが信じられなくなった人、ある日突然に一切は無意味だという思いにとらわれ苦しめられる人などの事例を紹介してはいるが、著者はこういう厭世的悲観的になること自体またはそこに留まることに価値を認めるというよりも、こういう厭世的悲観的な心境を通過することに意義を見出しているようである。これを経験せずに楽観的であり続けるよりも、極度に厭世的悲観的な状態に落ち込むという魂の危機を経た方がより深い真理を体得できるというように…。
とすると、著者は厭世的になることから生じる果実の価値を認めているだけで、厭世的であることそのものの価値を認めているわけではなさそうだ。ここのところは若干細かい理屈ではあるが、著者の考えがこのようなものだとすると、これは厭世的な心境から脱した人にとっては福音であろうけれども、そこに留まり、抜け出す見込みのない人にとっては随分と遠くに針の先程の弱弱しい光が見えた気がするだけでそれほどありがたい話とは思えないということになりそうだ。
最後に蛇足ながら、これは厭世についてだけでなく、無神論についても同じことが言えるかもしれない。無神論を通過しない信仰は、厭世を通過しない信仰と同じくどこか狭いものがあり、不完全ではないかと。