本書では、健全な心の人々の間では、過去の罪を忘れることが最善の悔いと考えられていることを指摘している。
最善の悔いとは、正義のために起って行動することであり、諸君がかつて罪とかかわりをもっていたということを忘れることである、と考えられるのである。

(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.195)
 辛い経験を忘れることが癒しになるという話はよく聞くし、一理あるとは思う。健全な心の人々がそのように考えているというのもその通りだろう。
 でも自分の感覚としては、過去の罪を忘れることが最善の悔いだと言われると、少々、違和感がある。
 ちなみに著者がいう「健全な心」云々というのは、その文脈からすると、精神的に健康で明朗闊達な性質の人々という意味というよりは、ポジティブ思考、光明思想、スピリチュアルサイエンス、信仰療法など、物事の明るい面を見て、常に前向きな考え方をしようという思想を信じ、それを実践しようとする人々のことをいっているらしい。
 著者はこれらの人々について、さらに次のような指摘をしている。
健全な心のキリスト教徒によれば、悔いとは、罪から逃れることであって、犯した罪に呻いたりもだえたりすることではない。告白とか赦免というようなカトリック教会の行事は、一面、健全な心をいつも優勢にしておくための組織的な方法にすぎないともみられる。告白や赦免によって、人間が負っている悪の借金が、定期的に決済されたり監査されたりして、古い借金が一つも記入されていない、きれいなページでスタートできるようにしようというのである。カトリック教徒ならだれでも、そういう浄罪の行事を終えた後で、どんなに清浄な、新鮮な、自由な気持ちがするかを告げるにちがいない。

(同上、p.197)
 これと似たことは、幸福の科学でも説かれていた。反省をした後は、心がさっぱりして、さわやかな気分になるのが本当であって、もしそれがために余計に気持ちが落ち込み、くよくよしてしまうのであれば、それはどこかに間違いがあり、正しく反省できていないということだと…。またこれとは別に、人の言動は、正しいことも、間違ったこともすべて心にある想念帯に記録されているが、過去の間違いを反省すれば、その部分の想念帯の記録は上書きされ、黄金色に輝くだという話もあった。
 想像するに、こういう風に、人の罪をゆるし、さらにはそのような過去を修正し、忘れさせて心の重荷を取り除こうとする教理は、どこの宗教にもあり、これこそが宗教の存在理由の一つになっているのではなかろうか。
 現実には、事実は事実であって、過去にそのような行為をなしたという事実は、反省してもしなくても、神が赦そうが赦すまいが変えようもないことで、我が咎は常に我が前にありという状態から逃れようがないのではあるが、上のような宗教の教理を信じていればその信仰の程度によってその圧迫から解放され得るのであって、こういう精神的な利益がある限りは、その教理が現実であるという根拠がどれほど頼りないものであっても、宗教が関わる事件、不幸がどんなに繰り返されたとしても、この世に宗教を信じる人々が存在しなくなることはないだろうし、ここにこそ宗教の役割があるのだろう。