信者がエル・カンターレ信仰を維持するために、法身信仰論に近づき、大川隆法とエル・カンターレの分離を試みるというのは、大川隆法のことをどんなに頑張っても神だと信じられなくなっているということであろうから、信者としては悲劇的な状況ではあると思う。
でも自分は、それよりもっと気の毒な状況を目撃したことはある。某掲示板において、HS信者と思われる人が、「仏陀であるからといって人格者とは限らない」と主張していたのだ。普通なら、仏陀=人格完成者とするものだろうに、この人は真っ向からそれを否定していた。
想像するに、「大川隆法は仏陀である。でも大川隆法を見ていると人格者とはどうしても思えないところがある。なぜだろう? そうだ! 仏陀といえども人格者とは限らないのだ」というようなことを考えたのだろうけれども、大川隆法を信じ続けるために、仏陀をも貶めるというのは、本当に気の毒なことだ。
本来なら、信仰者がこのような考え方を持ってしまうというのは、絶対にありえないことではある。たとえば、「教祖様は救世主のはずだ。でもどうみても人格高潔とは言えないところがある。なぜだろう? そうだ! 救世主といえども人格高潔とは限らないのだ。イエス・キリストだってきっとそうだったんだ。救世主が人格高潔でなくてもおかしくないんだ」なんて考える信仰者がいるわけがない。
でもHSではどうもその手の人が増えているようなのだから驚かされる。その原因を考えるに、大川隆法による神々や高級諸神霊の霊言が、下品だったり、性格が悪かったりすることが多いからかもしれない。その影響で、HS信者のなかには神々や高級諸神霊に対する敬意に欠ける人が増えているのだろう。こういう信者たちは大川隆法の策略にまんまとハマってしまい、「大川隆法総裁をみてると、至高神だとか、仏陀だとかいうのは疑わしく思えてくることもあるけど、他の神々や高級諸神霊の霊言を聞くと、神とか、高級諸神霊とかいっても、人格的にはさまざまであり、いろいろと欠点があったりもするようだ。そういうのと比べたら大川隆法総裁はすごい。まさに至高神だ。神の中の神だ」と考えさせられているのだろう。
大川隆法は神だとするエル・カンターレ信仰のために、神々や高級諸神霊への信仰や尊敬を失う方向に誘導されているとしたら、そら怖ろしいものがある。