これは本書に引用されている手記の一節だけれども、自分もこれと同じとは言わないまでも、似た経験はある。
十六歳のとき、私は教会の会員になり、私が神を愛するかどうかを質ねられた。私は型のごとく、期待どおりに、『はい』と答えた。しかし、たちまち閃くように、私の心のなかでなにものかが『いや、お前は神を愛していない』と言った。私は自分の虚偽と、神を愛さない自分の邪悪さとに対して、恥じらいと悔いの念に長いあいだ悩まされた。この恥じらいと悔いには、復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない、という恐怖が混じっていた。

(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 一寸言い難いことではあるけれども、自分は幸福の科学(以下、HSと略す)に会員籍はあるものの、ほとんど支部にも行かず、活動もしない幽霊会員になっていたころ、たまたま支部に顔を出した折に、知り合いだった職員から「楽山くんは、三帰まだだったね。この後、三帰誓願式があるからやってきなよ」と言われて、それを受けたのだけれども、これが切っ掛けで自分は自分の不信仰に気づかされたのだった。
 かつてHSの正会員になろうとしたときは、自分にその資格はあるのだろうかなどと随分悩んでからようやく願書を書き、六箇月待機を命じられるかもしれないとドキドキしつつも、いわゆる清水の舞台から飛び降りる気持ちで提出したのだったのに、上の三帰のときは、職員から言われるままに、なんでもハイハイ従い、その場でさっさと済ませてしまったわけで、これはそれだけHSに無関心になったということなのだろうと…。
 佐々木丸美の『雪の断章』では、ヒロインは一人の男性を一途に愛し続けていたものの、その恋の成就を邪魔しようとする他人の言葉に惑わされてその男性を誤解して嫌悪、軽蔑し、遠ざけ、彼への当てつけもあって他の男のプロポーズを受け入れてしまうのだが、その瞬間にヒロインは自分は過ちを犯したこと、自分がどんなに彼を愛していたのかということに気づかされるという場面があって、ずいぶん乙女ちっくな展開だと思ったものだったが、何のことはない、自分も信仰においてこれと似たような状態になってしまっていたのだからおかしなものだ。
 思うに、信仰というものは、大して信じてなければなんとでも言えるけれども、本気で信じていれば信じているほど「信じます!」という信仰告白は難しくなるものなのだろう。そういえば以前、匿名掲示板において、とあるクリスチャンと議論したときに、「洗礼を受けたということは、いざという時には殉教も覚悟しているということですか」と問いかけたら、「そうあるべきだろうけれども…」とはっきりしない答えが返ってきて、それを聞いた自分は、この人は本当に信じているのだなあと思ったものだったが、HS信者が命懸けだとか不惜身命だと息巻いているのを見ても、この人は全然本気じゃないんだなとしか感じないのもそういうことなのだろう。
 結局、人は本気であればあるほど責任について考えるものであるし、そうであれば当然のように口は重くなり、軽はずみなことは言えなくなるものなのだ。もっとも世の中にはいろいろな人がいるわけだから、すべてがこの通りというわけでもあるまいが、少なくとも自分についてはそんな風にできているのは確かではある。