幸福の科学(HS)の会員だった頃、会員の集いで皆と神理の話で盛り上がった後の帰り道で不思議な感覚を味わったことがあった。これは光輝く神と出会っただとか、その声を聞いたというような派手なものではなかったが、とにかくそのときの幸福感は圧倒的なものだった。
自分にとってこの体験は一体何だったのかということが長年の疑問だったのだが、先日ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、自分の体験と同種のものと思われることがいくつも紹介、考察されていて驚いた。もちろん本書で紹介されているものと比較したら、自分の体験は随分とつつましく、貧弱なのだが、それでもその本質的な部分では共通するものがあり、同系統のものと思われるのだ。
このことからすると、どうやらあの体験は、宗教的にはそれほど悪いものではないようだし、またHSに限定されるものではなく、他宗教でもあり得るものであってそれほど特殊なものではないようだ。よく言われることだと思うのだが、神秘体験というものは宗教に属するものではなく、個々人に属するものであり、もっと言えば、その時、その場所、その心境に依存するものであるというのは真理の一面を表してはいるのだろう。だからカルトでも神秘体験はあり得るし、神秘体験があったからその宗教は正しいものであるとはいえないのだ。
HS信者をみていると、残念なことに自身の神秘体験とHSとを別個に分けて考えることができず、両者を安易に結びつけてHSで神秘体験があったからHSは本物であり正しい宗教だと主張する人が散見される。聞くところによると、オウムでもそういう信者はいたという。この二つを分けで考えることは口で言うほどやさしいことではないのでそれも致し方ないことではあるが、判断をあやまらないためにはここはぜひとも気をつけなければならないことではある。
なんだか偉そうなことを書いてしまったが、自分もこの点についてはまだまだ徹底することはできず未熟であるし、この点よくよく自戒したいと思う。