*すれ違い
教義変更について、信者とアンチの間には前々からこんな議論がある。
アンチ「また過去世変更だ。聖アントニウスも設定変更された。『太陽の法』も、『正心法語』も変えられたし、HSの教義はコロコロ変わってばかりだ。これはおかしい」
信者「HS教義はたとえ変更があったとしても、その本質は少しも変わっていない。愛の大切さ、反省の必要性…心の教えは当初からずっと変わらない」
自分はこういうやり取りを見ていて違和感があったのだが、最近になってようやくその理由が分かった。
*違和感の原因
まずアンチ側の主張の論旨は次のようなものと思われる。
・HSでは、大川隆法は至高神エル・カンターレであり、仏陀であるという。
・でも大川隆法は間違いを修正したり、言うことがコロコロ変わってばかりいる。
・これは大川隆法は真理を悟っておらず、神でもなければ、仏陀でもないことの証拠だ。
要はアンチは、HS教義の根本にあるエル・カンターレ信仰の矛盾を突いている。
これに対して、信者側の反論はこうだ。
・HSは、愛や反省の大切さなど、心の教えを説き続けている。
・また霊的人生観についても説き続けている。
・HS教義の本質は変わっていない。
自分の見たところでは、これは宗教の本質についての話ではあっても、HS教義の本質についての話ではない。アンチの「大川隆法が仏陀であり、至高神エル・カンターレだというなら、間違いがあったり、話がコロコロ変わるのはおかしい」という疑問には少しもこたえていない。
宗教は人はいかに生きるべきかだとか、死後の生について説くものだ。だから宗教であれば、愛や反省などの心の教えを説いたり、霊や霊界などの死後の世界について説くのは当たり前だ。だからHSが宗教である限りは、心の教えや霊について説いているのは当たり前だ。それらについて説き続けていることを力説したところで、HSは宗教であるという分かりきったことを強弁しているだけにすぎず、大川隆法は神でも仏陀でもなく、真理も悟っていないというアンチの批判にこたえたことにはならない。
結局、自分がこの議論に感じた違和感は、HS教義の本質の話と、宗教の本質の話がごちゃ混ぜになっていたためなのだ。
*よくあること
ちなみに、この手のことは、HS界隈ではよくあることだ。たとえばこんな風に。
アンチ「HSはカルトだ。HSを信じるのはまちがってる」
信者「信仰を否定するのは、宗教を否定することだ。宗教を否定するのは唯物論、無神論に毒されているからだ」
アンチ「大川隆法みたいにイタコ芸ばかりやってる人が、神のわけがない」
信者「神を冒涜するのは許されない」
こんな風に、HSを批判したら宗教全体を批判したことにされ、大川隆法を批判したら神を冒涜したことにされることはよくある。
これからしたら、HS教義の本質を批判したら、宗教の本質の話にすり替えられたというのも致し方ないことかもしれないと思う。とほほ。
*HS教義の本質
最後に、HS教義の本質をエル・カンターレ信仰だとすることに異論がある人もいるかもしれないので、これについての自分の考え方を書いておきたい。
まず自分は、本質とは、そのものをそのものたらしめている何かだと考えている。だからHSをHSたらしめているもの、HSだけにあるものは何かと考え、それはエル・カンターレ信仰だと結論付けた。
HS教義には、心の教えだとか、霊的人生観などがあるが、それと同種のものは他宗教にもあるが、大川隆法は至高神エル・カンターレであるという信仰は、他宗教にはなく、HS独自のものであろうから、これこそがHS教義の本質だろうと。
実際、HSの入信の儀式では、大川隆法を信じ、大川隆法の教えを信じ、大川隆法の教団を信じるという風に、大川隆法を信じることを誓うことになっている。これはつまりHSでも、エル・カンターレ信仰こそがHSの根幹であり、要諦であると考えている証拠だろう。というわけで、HS教義の本質であり、最も重要なことはエル・カンターレ信仰であるとするのは、それほど見当外れでも無かろうと思う。
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