詩篇を読んでいたら、運命論と読める箇所があった。
あなたのみ眼はわが生涯を見渡され
それらはみなあなたの書に記され、
わが日々はわたしが見る前に形造られた。

(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.339)
 以前、聖書入門というような本で、聖書はさまざまな文書を集めたものなので、そこからはどのような思想でも導き出すことが可能だという文章を読んだことがある。これが正しい見解だとすれば、聖書の中に運命論と解釈できる箇所があったとしても驚くべきことではないし、それをもってこれこそが聖書の基本的な立場だと結論づけることはできないことになるだろう。
 でももし神は全知全能であるとするならば、神は将来何がどうなるかはすでに知っているのだろうし、何を起こして何を起こさないかということをあらかじめ予定していたとしても不思議はないと思える。とすると運命論、決定論、予定説などの細かい定義は一旦脇に置いておくとして、聖書は大雑把にいえば運命論的な立場にあるとしてもそれほど見当違いではないだろうし、その解釈に理があると仮定すればこの後に残る問題は、各人がこれを受け入れるか受け入れないかということだけになる。
 ちなみに自分はどちらかといえば前者寄りの立場ではある。以前は運命論には抵抗感があって嫌いだったが、近頃はそういったことにはこだわらない、気にしない方向に進みつつある。なぜそうなったかといえば、それにはおよそ二つの理由がある。まず一つは環境と遺伝は、自分が想像していた以上に人間の思考行動に対して影響力があることを知ったことであり、もう一つはヨブ記を読んでから因果応報という考え方と距離ができたためである。
 善行は報われ悪行は裁かれるという期待から離れて、善行は報われなくとも悪行は裁かれなくとも自分の生き方は変わらない、自分は自分の良心に正直でいるように努めよう、それだけで充分だと思い始めたら自然と運命論に対する反発は薄れてきたのである。自分が運命論を認め難かったのは、因果応報という御利益信仰のためだったのだろう。他の人のことは分からないが、自分の場合は因果応報の世界の外側を知ることで、運命に納得することができるようになってきたといえる。
 話はガラリと変わるが、上記の「あなたの書」というのは、まるでアーカーシャの記録について言っているようだ。こういう話の元ネタは古典聖典にあるのだろうから、聖書にアーカーシャの記録について書いているらしき箇所があっても不思議はないのではあるが、生まれつき根がトンデモ好きにできている自分は、こういう発見があるとついわくわくしてしまうのだから恥ずかしい限りだ。こういう悪癖はなおしたいのだが、なかなか難しいのだから残念である。とほほ。