*まえおき
先日、ツイッター上で、幸福の科学(HS)の教えをどう評価するか議論になったので、ふと思いついて、ひさしぶりにUMA氏の「幸福の科学根本教義批判」を読み直してみた。今読んでも、なるほどと思えるところが多々あって面白い。
考えてみれば、自分はHSの教えについてあれこれ書き散らしてはいても、まとまったものはまだ書いていなかった気がする。もしかしたら書いたことがあったかもしれないが、そうだとしてもすっかり忘れてしまった(笑)。
とすると、HSの基本教義について、現時点における自分の感想をまとめておくのも有意義なことかもしれない。「そんなもんいらん!」という人もあろうが、自分の頭の整理には役に立ちそうだ。本当ならこういうものは参考書籍を読み直してから書くべきだろうが、今回はまずは軽い草稿として自分の記憶によってざっと書いてみることにしよう。
*正しき心の探究
まずHSでは、正しき心の探究について、次のように説明していたと記憶している。
・正しき心の探究の、正しき心とは、神の心のことである。
・したがって、正しき心の探究とは、神の心の探究の別名である。
これについて、自分は現時点ではこのように考える。
・神とは人知のおよばぬ存在である。
・人知のおよばぬ神の心を知ろう、または知ることができるというのはナンセンスである。
・正しき心の探究という教えには、人には正しき心、神の心を知ることができるのかという慎重な考察と、人にはそれを知ることはできないという謙虚さとが欠けている。
これを欠いたまま、正しき心の探究を実行するならば、次のような落とし穴にはまる恐れがあるだろう。
・正しき心の探究とは、神の心の探究である。自分はこれを極めることができる。
・ついに自分は正しき心(神の心)を知った。
・自分の心は、神の心と一体となった。自分は神と同一である。人々に、神の心とはいかなるものであるかを説き聞かせよう。
・類は類を呼ぶように、自分は神の心を知ったというものが集まり、宗教ができる。
結論としては、正しき心の探究というものは、それを否定し、断念すれば、そうそう道から外れることはなかろうが、それを肯定し、実現可能とすれば神となろうとしたサタンと同じ轍を踏む危険性が高く、個人でなく集団でそれをするならばバベルの塔のような悲劇が起きるだろう。
*四正道
HSでは、愛・知・反省・発展についての四つの教えがあり、これを四正道と称している。
四正道は、一般人にも分かりやすいように、ゆるく解釈すれば、大体次のように要約できる。
・愛…人に親切にしよう。「~してほしい」と他人に求めてばかりでなく、まず自分が他人のために何ができるかを考えよう。
・知…愛は尊いが、知に欠ければ害になることもなきにしもあらず。人のためになる愛の実践のために、知を磨こう。単なる知識をこえて、智慧を身につけよう。
・反省…間違ったことをしたら反省し、同じあやまちは繰り返さないようにしよう。
・発展…昨日より今日、今日より明日と、自己を向上させよう。より多くの人々を幸福にして行こう。
でもHSの中に入って行くと、四正道は次のようなものに変化する。
・愛…与える愛の最上のものは伝道である。HSの教えを伝えることが最上の愛である。
・知…最高の真理である大川隆法の教えを学びつくそう。
・反省…大川隆法の教えを守ることができているか日々、点検しよう。
・発展…HSの発展に力を尽くすこと、自らの霊格、悟りの向上に努めること、成功できるように頑張ろう。
もうこれだけで四正道のおかしさは明らかであろうけれども、念のために書いておくと、四正道はその入口では善く生きるべきことを説き、善き人になる道を示しているように見えるけれども、そこに共感して深入りすると、いつのまにか教団のために生きる善き信者を目指すための教えにすり替わってしまうということである。
この点からいうと、HSの教えには良いものもあるという意見は、必ずしも間違いではないけれども、そこに魅力を感じて引き寄せられるようでは、撒き餌に集まる魚とさして変わらないということである。ちなみに自分はまさしくそれであって、撒き餌に集まり、夢中で口を使っているうちに、でっかい釣り針に喰いついてしまった魚だった(笑)。
*愛
自分の理解では、HSの愛の教えは大体次のようなものだ。
・愛には、奪う愛と与える愛がある。
・奪う愛は「~して欲しい」と相手に求めてばかりのもので、与える愛は「あなたのために~」と相手に与えきりの思いである。
・奪う愛は止めて、与える愛を実践すべし。
・与える愛には、愛する愛、生かす愛、許す愛、存在の愛という発展段階がある。
これに対して、自分はこう考える。
・人は愛されることで生きることができる。特に子供は愛されることで自分は愛される価値があると知り、自尊心を持つようになり、自分を汚す悪から離れ、強く生きていけるようになる。
・愛を求めることを奪う愛として禁じるのは、心の断食を強要することであり、心の健康のためにはよいこととはいえない。特に子供に対してそれを求めるのは虐待と同じだ。
・極端な自己中心性、自己顕示欲については奪う愛として問題視することに正当性はあろうが、愛を求めること自体を悪と断ずるのはおかしい。
与える愛については、こう考える。
・人は利己性から離れることはできない生き物だ。
・たとえば、誰かのために、自らすすんで犠牲になったとしても、その動機を吟味すれば、「あなたのために犠牲になりたい」という自己の欲求に従った結果であり、利他ではなく利己に根差していることが分かる。この構造はこの他のどのような利他行であっても変わらない。人のすることは結局は自分のためなのだ。(参考 『人間とは何か』マーク・トウェイン著)
・したがって、人は利己心から離れられないならば、目指すべきは、利己を認めつつも利他につなげることであり、利他的利己という生き方ということになる。(参考『科学と宗教との対話』竹内均)
・したがって、人は利己心から離れられないならば、目指すべきは、利己を認めつつも利他につなげることであり、利他的利己という生き方ということになる。(参考『科学と宗教との対話』竹内均)
愛の発展段階説についてはこう考える。
・与える愛、生かす愛、許す愛、存在の愛は、それぞれ個別に存在するのではなく、みな混じりあっているものだ。これらは愛の一面または一部を取り出してそれらしい名前をつけているにすぎない。
・たとえば子供がわがままを言うときは、一見すると奪う愛のようでも、そこには生かす愛や存在の愛も含まれていることは少し考えてみればわかることだ。
以上のことから、自分はこのように結論づける。
・愛は愛である。その一部を切り出して分類整理したところで、群盲象を評すと同じことで、愛の全体像は決して見えてこない。
・愛する愛、生かす愛…などという分類は、本来、形のない愛を、特定の型にはめ込み、歪なものにしてしまう。
・愛の実践は、どこかの偉い人の言葉に従うのではなく、まず自らの心に従うことが肝要だ。愛は神の別名でもあろうし、それは無形であり、無相であろうから、形にはめることはできぬし、ましてや権威主義的思考によるものではなく、それを超えるものである。これについては内なる神の声に耳を澄ますのが賢明である。
*知
知と聞くと、『知の原理』の冒頭で紹介されていたピンの話を思い出す。自分の通っていた支部ではこの影響を受けて、何か問題があると決まって「ピンは何か」という議論になったのだった。今でもこのピンの話はいい話だったと思う。
ただこれはアランのエッセーにある話を、大川隆法が紹介したものであるから、大川隆法というよりアランが偉かったということだろう。考えてみればこの話に限らず、大川隆法の話の中で、自分が感動したことの多くは、他者の受け売りであって、大川隆法自身が発見体得したものではないことが多い気がする。
ああそうだ。大川隆法の本…たしか『太陽のメッセージ』だったような気がするが、浜辺の足跡の話を読んで大いに感動したことがあった。守護霊がおぶってくれているという話で、こんな話ができる大川隆法はすごいと思ったものだった。でもそれからずいぶん経ってから、曽野綾子の『老いの才覚』で、これと同工異曲の詩が紹介されているのを読んで仰天させられたのだった。浜辺の足跡の話は大川隆法のオリジナルではなくて、キリスト教の方ではとても有名な詩だったのだ。こういうのはズルいと思う。(参考・浜辺の足跡 ・Footprints 『浜辺の足跡』 アデマール・デ・パロス)
『仏陀再誕』にある草笛の音の話は、今でも好きだが、もしかしたらこれも仏教説話かなにかが元ネタになっているのかもしれぬ。
さて前置きはこれくらいにして本題に入ると、HSでは与える愛のためには知が必要だとしていたと記憶しているが、自分の経験からするとこれは違うように思う。
たとえば生かす愛の実践のために知を用いようとした場合、自己の内面をよくよく観察すれば、心に理想を描き、自分の影響力を行使して、相手をそれに近付けようとしていることに気が付くだろう。つまり、「Aはこうあるべきだ」として、現実のAが自らその方向に進むように誘導しようとしている。これはHS的には奪う愛だろう。愛に知を持ち込めば多かれ少なかれこういう落とし穴は避けられないと思う。
またHSでは、知の世界より信の世界の方が広いとしていたと記憶している。「知ることと信じること」という論考だったろうか…。自分はこれは反対だと考える。人は知っていることしか信じることはできないのだ。神、霊、あの世、宇宙人…などの観念、言葉を知ってから、それを信じる、信じないという選択が生じる。もう少し詳しく書けば、特定の観念、言葉を知ってから、それが現実かどうかの確認があり、その結果現実と確認できなかったものについて、信じるか、信じないかという選択が生じる。知の世界は、信の世界よりもずっと広いし、信の世界と不信の世界は同程度の広さを持つのだろう。信の世界はそれほど広いというわけでもない。
最後にHSでは、霊的知識の大切さを説くが、この世では霊界も過去世も何も知らない状態で、いかに善く生きるかが課題とされているとすれば、いたずらに霊的知識を求めるのはおかしなことであるし、一種のカンニングと同じ不正行為となるだろう。
この世において霊界では決して会うことはできない存在から高度な法を学ぶというのは有り難いことではあろうが、波長同通の法則からすれば本来の自分の霊格以上の教えは聞いても聞こえず、そうたやすく身につくものでもない。ましてや霊的知識の学びを自発的に求める者ならともかく、伝道と称してそれを欲しない者に無理強いしても仕方ない。それはカンニングの強要と同じくらいに間違ったことである。
*反省
HSでは反省の前提として、正信…正しい信仰が必要だと説いていたと記憶している。たしか『真説・八正道』だったろうか。
自分の考えでは、これはHSの教えを基準にして判断することであり、教団に尽くす善き信者になるための反省ではあっても、善く生きる善き人になるための方法ではない。
たとえば、この場合の反省は次のような形になるだろう。
・自分は、エル・カンターレの教えに背かなかったか?
・自分は、エル・カンターレの教えを実践できたか?
こういう反省を繰り返していたら、善き信者になることはできるだろうが、万人が認める善き人になるのは難しいだろうことは明白だ。
反省の前に、正信としてエル・カンターレ信仰をおけば、どんなに反省したところで、エル・カンターレ信仰自体は反省の対象にならず、それが正しいかどうか吟味することはできなくなる。反省とはすべてをその対象とするからこそ効果があるのであって、何かを神聖不可侵としてしまっては意味がなかろうと思う。
*発展
自分の記憶では、発展とは愛の拡大であり、より多くの人々を幸福にすることだと教わったように思う。これには、なるほどと共感できる。
でも大川隆法の主張を聞いていると、信者数、公演回数、霊言回数、著作数の多さを繰り返し強調し、それらを増やすことをもってHSの発展と自分の偉大さの証明としているようだ。常々唯物論は間違いだと言ってはいても、この主張を見る限りはかなり唯物論的な思考、価値観によって発展をとらえているようでおかしい(笑)。
また大川隆法は、自己を発展させる方法として自己変革の必要性を説いているが、これは香山リカが指摘しているスピリチュアルにハマる人の特徴に合致している。氏によると、スピリチュアルにハマる人は、自分が変わりさえすればすべてがうまく行くと考える人が多く、自分の抱えている問題について、歴史的社会的な視点から考察し、対策を講じようという意識が希薄であるらしい。(参考『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』香山リカ著)
HSは常識に欠けるだとか、社会性が欠如しているという批判はよく聞くし、信者でも世間解について云々することは珍しいことではないけれども、これには発展、自己変革、自己責任など、HSの教えに社会性が欠けていることと関係していることは否めないだろう。これらは一面の真理を語っていないこともないだろうが、問題の原因をなんでも個人に帰すればよいわけではないのだ。
そういえば自分が会員だったころ、社会制度について意見を言ったら、先輩会員から「制度を変えたって心が変わらなければ何も変わらない」と言われて、ハッとさせられ感動したことがあったが、このことからすると当時の自分はまさに香山リカが言うところのスピリチュアルにハマる人だったのだろうと思う。とほほ。
*霊的人生観
自分の理解では、HSで言うところの霊的人生観とは人は死んだら終わりではなく、その本質は霊であり、永遠の生命を持ち、転生輪廻を繰り返しつつ、さまざまな経験を積み、霊性を向上させているという考え方である。ようするに、いわゆる霊性進化論であり、ダーウィンの進化論に強く影響された考え方である。(参考『現代オカルトの根源: 霊性進化論の光と闇』大田俊寛著。ちなみに本書は、UMA氏のレビューを読んで知った)
HSでは、進化論は間違いであり、ダーウィンは地獄に堕ちたとしているのだが、そんなことを言いつつもダーウィンの進化論の影響を受けた霊性進化論(霊的人生観)を信奉しているというのは、なんともおかしなことだ。でも考えてみれば、大川隆法は高橋信次を貶めつつも、その教えを流用しているのだから、こういうことには無頓着で、全然気にしない人なのだろう。
霊的人生観の弊害についていえば、それを信じれば信じるほど、四六時中、霊がどうした、過去世がどうしたと言ってばかりのおかしな人になってしまうということを指摘すれば十分だろう。自分が会員だったころのHSでは、心霊マニアや霊好きに堕してしまうのを戒めて、霊的人生観を持ちつつも常識をわきまえていなければならないと説いていたものだけども、それはあくまで建前であり、口先だけであって、実際には教祖から率先して霊がどうした、過去世がどうしたということばかり言っているのだから仕方がない。こういうHSを見ていると、怪力乱神を語らずという姿勢の大切さを痛感する。
*信仰
『仏陀再誕』では、地上の仏陀である大川隆法への信仰が説かれている。つまりHSで説かれている信仰は、教祖崇拝、生き神様信仰、グルイズムなどと同じものである。これはいちいち批判するまでもなく、間違いであることは明らかだ。
それにしてもHSは、唯物論を批判しつつも、社会主義共産主義にありがちな個人崇拝と同じ形態の信仰を持っているのだからおかしなものだ。社会主義国では、指導者を神格化して銅像をつくったり、肖像画を飾ったりして讃えているが、HSでも教祖の銅像を作ったり、写真を拝んだりしている。こういう両者をみると、人は信仰者であろうと、唯物論者であろうと、神から離れてしまえば、その次には人を神として崇めるようになってしまうのかもしれぬと思えてくる。
こんなことを書くと、信者からは「わたしは神から離れていない」という反論があるかもしれないが、自分からみれば、神でないものを神とすることは神に背を向け捨てることであろうし、それなら神ではない大川隆法を神だとすることも神に背を向け捨てることであるとしか思えない。信者にとっては〈大川隆法=神〉だろうから、大川隆法を信じることが、神を信じることであり、大川隆法を信じないことは神を信じないことになるのだろうけれども、それはHS内部では通用しても、外では無理だろう。
個人的な感想としては、教祖崇拝、生き神様信仰というものは、信仰としてはもっとも唯物的、地上的、俗世間的であって、お世辞にも崇高とは言い難い信仰形態だと思う。
*霊言
HSでは、霊言が本物である証として、さまざまな説明をしている。たとえば外国人の霊が日本語で語ることについて、総裁の言語中枢を活用して話しているとしたり、霊言をするには霊と波長を合わせる必要があるなど…。
ただこういう説明は、その時々の都合で変わることもあるのが胡散臭い。先頃の例でいえば、守護霊霊言の内容について現実との乖離が明らかになったとたん、守護霊霊言では本心が語られるという説明がブレていたのだった。(参考・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由)
こういうところからすると、HSで言う「霊言のしくみ」なるものは、霊言を本物らしく見せるための、はなはだ護教的な後付けの屁理屈にすぎないことは明白である。
ただこういう説明は、その時々の都合で変わることもあるのが胡散臭い。先頃の例でいえば、守護霊霊言の内容について現実との乖離が明らかになったとたん、守護霊霊言では本心が語られるという説明がブレていたのだった。(参考・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由)
こういうところからすると、HSで言う「霊言のしくみ」なるものは、霊言を本物らしく見せるための、はなはだ護教的な後付けの屁理屈にすぎないことは明白である。
ちなみにHS以外においては、霊言の審査においては次の基準が用いられることが多いようだ。
①声が変わる
(少女が、野太い男の声で話す等)
③霊言内容と確認された事実が一致する
今のところ、大川隆法による霊言は、①②③のどの基準を満たすこともできておらず、この点からする到底本物とは言い難いと結論づけるしかないように思う。
一応念のため、①②はすぐに分かることだからよいとして、③について説明を加えるとすると、これについてよく言及されるのは佐倉哲氏のページだ。
仏陀意識で書かれたという『仏陀再誕』などについても検証されている。
ところで、この論点における自分のツボは、ダーウィンの霊言において、ダーウィン霊が人になりかけの猿を探していると言っていたことである。進化論は、猿が人になったというのではなく、猿と人は共通の祖先をもつということなのだが、大川隆法に降りたダーウィン霊は進化論のことをよく知らず、一般人にありがちな誤解をしているらしい。
また潮文社時代のキリストの霊言では、キリスト霊は最期の言葉について、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」などということを言うわけはなく、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とはエリア、ラファエルを呼んだのだとしていたと記憶している。でもキリスト教の入門書を読めば、これは詩編22の冒頭句であり、それは嘆きから始まり、やがて神の讃美へと至る詩であり、福音書作者は、この冒頭句を提示することで、十字架上のキリストは詩編22を唱え、神を讃美していたことを示したということだ。でもなぜか大川隆法に降りたキリスト霊は、こういうキリスト教では常識的な知識さえ持たないのだからおかしい。
大川隆法が霊言と称するものは、このようにある程度の知識があれば、すぐにボロが出るものである。以前の霊言であれば、たとえ霊言のなかに事実誤認があったとしても、心の教え、人生論的な部分についてはよいところもあるという主張も成立し得る可能性はなくもなかっただろうけれども、最近の霊言は大川隆法への讃美やら、教団運営のつじつま合わせやら、過去世がどうこうというような護教的なものばかりなのだからそれも無理になっているのだから仕方がない。
*まとめ
大川隆法は自分の教えによって、世界の宗教を統合するとしているし、信者もそれが可能だと信じているのだろう。実を言えば自分も信者だった頃はそれを信じていた。
でも神を信じ、霊的人生観を持ち、正しき心の探究を志し、愛知反省発展を実践するうちに、残念ながら大川隆法の教えでは世界の宗教を統合することは無理だと結論するしかなくなってしまった。信仰、愛、知、神、教義体系などについてはキリスト教の方がより徹底しており、深く緻密に探究しているし、思想性の幅広さであれば仏教が圧倒的だろう。発展については宗教ではあまり語られていないというが、キリスト教系の光明思想や、自己啓発本などで十分に語られている。霊については最近のHSでは護教的党派的な見地からの主張が多く、ずいぶんと偏向したものになっているが、それよりはより普遍的な立場から語っているスピリチュアル系の本で学ぶ方がいいだろう。
またすべてを統べる思想を目指すのであれば、唯霊論でも、唯物論でもない、それらを超えた立場を目指すべきであって、霊的人生観という唯霊論の立場に立ち、唯物論を否定しても仕方がない。同様に、有神論と無神論のうち一方の立場に立っていても仕方がない。唯霊論でも唯物論でもなく、有神論でも無神論でもない、それらを超越した立場にでも立たなければ、それらすべてを統べることはできぬだろう。この意味でHSの教義には限界があるし、HSの教義は数ある宗教のうちの一つではあっても、すべてを統べるものになることは決してないのが現実である。HSの教えによって救われる人は当然いるだろうけれども、だからといってすべての人を救えるとは言えない。大川隆法がいくら自分の教えを誇ったとしても、こういう事実はいかんともしがたいのである。
以上、これが自分の現時点における結論である。〈了〉