中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。