『羽仁もと子著作集 第十五巻 信仰篇』に収録されている「ヨブの信仰」を読んだ。ヨブが「悶掻きつつあらゆる言葉で神を怨じるのは、神の愛を信じきっているから」であり、神はこれを喜んだとのことである。
 これは、あっと驚かされると同時に、妙に納得させられた。胸にストンと収まる感じだ。彼は神に恨み言をいいつつも、心の奥では神を信じきっており、神はそのことをすべてご存知の上で、受け入れてくださったというのであれば涙が出る。宗教界隈では、神に対する恨み言を呟いてしまったなら、もうそれだけで、即、バツ判定されることも珍しくないけれども、神はそんなことはせず、もっと深いところまで理解してくださるというのであれば、こんな有り難いことはない。
 でも考えてみれば、実際こんなものかもしれない。ちょこっと順序だてて説明するなら、神の愛を信じていなければ恨み言なんて言えるはずもなく、ただもう怖くて怖くてコチコチに緊張しているしかないが、それを心の奥で信じきっているならば、自分がどのようなものであれ受け入れてもらえることを予期できるわけで、だからこそ心にある思いをそのまま口に出し、自分のありのままの姿をさらけ出せるのであり、神はそのことをすべてご存知だということである。この辺りの機微を解せぬ、頭がかたい人は、誰かが不敬発言をしたなら、それだけでもって怒り、裁き、受け入れを拒否するけれども、真の神はそんなものではなく、もっと深く包容力があるということ。
 こういう流れをリアルに感じることができるかどうかは、人によるのだろうけれども、自分はこれを現実以上にリアルに感じる性質ではある。即物的に考えれば、こういうどこまでも甘い神をリアルに感じるのは、自分の幼少時の親子関係や、他人に甘い自分の姿を投影しているだけにすぎないのだろうが、自分には、何かというとすぐに怒り、裁く厳格でいかめしい神は想像できず、こういう大甘な神しか考えられないのだから仕方ない。
 羽仁もと子の著作は、まだ全然といっていいほど読んだことはないのだけれども、俄然、興味がわいてきた。羽仁もと子が信じている神は一体どんな神なのだろう。この「ヨブの信仰」からすると、自分の感じている神と近いところがある気もするけれどもどうかな。ちがうかな。
 本書について検索してみたら、二種あるようだ。自分は新版で読んだが、こうなると文語体の方もどんなものだか見てみたくなるなあ。