*まえおき
 最近は、本の感想を書くことが多かったが、たまには趣向を変えて対話篇というかたちで書いてみたい。


*はじまり(若者と老人の対話)
若者 「こんにちは」
老人 「こんにちは。ひさしぶりだね」
若者 「はい。先日はブログを読ませていただきました。おもしろかったです」
老人 「ありがとう」
若者 「でも申し訳ありませんが、正直な感想をいうと、どうしても同意しかねるというか、疑問に思えるところがありました。もっともこれは、僕の誤読のせいかもしれませんが…」 
老人 「なるほど(微笑)」
若者 「あれ? お怒りにならないんですか?」
老人 「そうだね。人はそれぞれ違った意見を持っているのが当たり前なのだから、私の意見に同意しないからといって別に腹を立てることはないさ」
若者 「そういうものですか」
老人 「そうだよ。それに巷には、相手の意見を誤解したまま、正確に理解しようともせず、ああだこうだ言う人は少なくないし、ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。それからしたら、きみのように、あれこれ言う前に、自分の誤読の可能性を考えたりして慎重な態度をみせてくれるのは、とてもありがたいことだ」


*神のことは分からない
若者 「そう言って頂けると、とても話がしやすくなります。ありがとうございます」
老人 「どういたしまして。それで疑問に思ったところというのは、どの部分についてなんだい」
若者 「神についてです。あなたは神についていろいろ書かれていますが、僕にはどうもあなたの真意がどの辺りにあるのかが分からないのです。あなたは一体、神とは何だと考えているのですか」
老人 「……」
若者 「どうしました?」
老人 「どうって質問にこたえたんだよ」
若者 「こたえた? 口を閉じたまま、何も話さなかったじゃないですか」
老人 「私は、神とは不可知であると思っているんだ。人には神のことは分からないとね。だから私には、神とは何かと問われれば、沈黙でこたえる以外にはこたえようがないんだ」


*神について語ろうとするとき
若者 「なるほど。神とは人知では知り得ないと考えているんですね。でもそのわりには、神についてたくさん書いているようですが…」
老人 「よく読んでもらえれば分かってもらえるだろうけれど、私が神について意見を言おうとするときは、大概は、一つの仮定として書いているつもりだ。『もし神が超越的な存在であるなら××だろう』とか、『もし神が全知全能であれば〇〇であろう』という風にね。または『◇◇教では神は△△としているが、これから考えるなら~だろう』とかね」
若者 「そう言われてみればそうですね。他にはありますか」
老人 「『自分には神とは××と感じられる』という言い方をすることはあるね。いわば先の語り方は神について理性的に語ろうという試みだが、こちらは感覚的に語ろうという試みと言える。後者については人はそれぞれ感性は異なるものだから、私とは異なる感性の持ち主であれば、当然に私とは異なる感想を持つだろうな」
若者 「ということは、あなたが神について語っている時は、『神は~である』というのではなくて、『神は××であるとすれば~である』『自分には神は~と感じられる」というように、仮定の話だったり、実感についての話だったりするということですね」
老人 「その通り。神は多義的であり、多面的でもあろうし、そう簡単には定義できないものだ。強いてそれをしようとするなら、神とは人には分からないものだとするくらいしかできないのではないかな」
若者 「はい」
老人 「だから神については、『神とは~である』と断定的には語れず、『神が××なら、~であろう』『自分には神は~と思われる』という程度のことをしか言えない。そしてこの場合、誰かが『いや、自分には神は~ではなく、××と思える』と主張するなら、『それは違う』とは言えず、『ああそうですか。あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ないんだ。神とは何であるか確かなことは分からないのだから、そうならざるを得ない」
若者 「ああ、今回、お話を聞けてよかったです。お陰様で、ようやく納得できました。実はあなたの語る神について、少々、違和感を覚える部分があったのですが、それはどれが正しく、どれが間違っているということではないんですね」
老人 「その通りだ。きみが神についてどのようなイメージを持っているのかは分からないが、人には『神とは~である』と断言することはできないのだから、誰かが描く神のイメージは正しく、他の誰かが描く神のイメージは間違いだということは言えないだろうね」