*信者の訪問
信者 「こんにちは。あなたのブログを読んで、いろいろ考えさせられました」
老人 「こんにちは。それはよかった。拙ブログが考えを深めるきっかけになったのであれば、こんなうれしいことはない」
信者 「なに言ってんですか。あなたのブログを読んで、よいことも、うれしいことも一つもないですよ」
老人 「は? それはどういうことかな」
信者 「どうもこうもないです。言葉通りの意味ですよ。あなたのブログのでたらめさには、まったく呆れてしまいましたね」
老人 「ほう…。たとえばどんな?」
信者 「そうですね。まずあなたは因果応報を否定してるでしょう。これはもう噴飯ものであって、明らかな間違いです」


*三つの問題点
老人 「うーん。それは早とちりだね。私の考えは、因果応報が現実かどうかは、人には確かめようはなく分からないことだというものだ。それがあるとも、ないとも断言はしない」
信者 「でも因果応報を否定しているでしょう」
老人 「因果応報という考え方には、人道的、倫理的、宗教的な面から問題があるとは考えている。また自分の感覚として、因果応報にはあまりリアリティを感じなくなってきているというのもある。ただ因果応報という法則があるかないかについては人には分からないと思う」
信者 「なに屁理屈ばかり言ってるんですか。そんな詭弁には騙されませんよ。私のことをなめるのは、いい加減にやめなさい」
老人 「別になめているつもりはない。その証にきちんとあなたと向き合い、私の考えを説明したいと思うがどうだろう」
信者 「話したいなら勝手に話をしたらいいでしょう。でも騙そうったってそうはいきませんからね。末端信者とはいえ、それなりの教学はしてますから、あなたなんかに騙されませんよ」
老人 「そうかい。では因果応報について私の考えを話してみよう」


*因果応報と人情

老人 「いきなり私事から話をはじめて恐縮ではあるが、この問題について語るには、それがどうしても必要だと思うので、ここは我慢して聞いてもらいたい」
信者 「能書きはいいから、早く話をはじめなさいよ」
老人 「うむ。私が生まれ育った家は、特定の宗教の信者ではない、日本ではごく一般的であろう無宗教の家だった。だからは私は、特別な宗教教育は受けたことはなかった。それで、気の毒な状況にある人をみれば、『気の毒だ』と思ったものだった。『なんとかできないものか』とか、『自分に何かできないか』『でもお節介がられるんじゃないか』とか、いろいろ考えたりもした」
信者 「……」
老人 「その後、私は青年期になって、とある宗教に凝ったんだ。その宗教は、因果応報やカルマは真実であり、事実であると説いており、私はそれを本気で信じた。その結果、気の毒な状況にある人たちをみたときには、まずはじめに『前世のカルマだ』『罪の報いだ』と考えるようになり、同情心はあまりわかなくなったんだ。悪いことをしている人をみたときは、『罪の報いで地獄に堕ちる』『来世は反作用で苦しむだろう』などと考えてしまった」
信者 「それで? それがどうだったいうんです?」
老人 「この結果、私は、因果応報という考え方は、人の自然な情緒を棄損し、冷酷にする面があり、ここは非常によくないと考えるようになったんだ」
信者 「因果応報を信じるようになってから、人に対して冷酷になったとして、それは因果応報の問題ではなくて、あなた自身の問題でしょう。自分の問題を、因果応報になすりつけてはいけません」
老人 「そうだろうか。私がいた宗教では、因果応報だとか、カルマが説かれており、私以外の信者たちも、不幸な状況にある人について、『カルマですね』とし、意見が合わない人には『死後は地獄ですね』といい、不慮の死を遂げた人については『肉体生命は断たれても霊としては永遠です。どんな経験も霊性を向上させるための肥やしになるんです』といって簡単に割り切って終わりにする人が多かったものだ。彼らのこういう冷淡さと、因果応報、カルマといった思想とは無関係ではないように思う」
信者 「それじゃあ、勝手にそう思ってたらいいでしょう」