*よくあること
若者 「こんばんは。ブログ記事、読みました。大変でしたね」
老人 「読んでくれてありがとう。まあ慣れてるから大丈夫だよ。信者にもいろいろな人がいるけれども、ああいうタイプはよく見かけるタイプではあるね」
若者 「同感です。最近は僕も、信者さんと話す機会が増えてますが、本当にああいう人はよくいますね。信者さんの中にはもちろんまともな人もいますが、そうは思えない人も多い」
老人 「匿名ネットの世界だから、ああいう人ばかりが悪目立ちしているというのもあるだろうね」
若者 「そうですね。きっと現実世界ではちがうでしょうね」
*話しても無駄
若者 「ところで、信者さんとの対話を読んでいて一つ気になることがありました」
老人 「ほう、なんだい?」
若者 「信者さんが、あなたとは話しても無駄だとか何とか言ってたことです」
老人 「そんなこと言ってたかな。忘れてしまったよ」
若者 「ええ、言ってました」
老人 「そうか」
若者 「実は、僕もそういうことをよく言われるんですよ。『あなたと話しても時間の無駄だ』と言われて議論を打ち切られてしまうんです」
老人 「きみの宗教批判があまりに激しすぎたり、執拗すぎたりするからじゃないかな」
若者 「そうかなあ。僕としてはそんなに乱暴な議論をしているつもりはないんですけど」
老人 「信者だからといって、みんながみんな、信仰や教義について、きみみたいに突き詰めて考えているわけではないからね。そういう人に信仰や教義についての深い議論を求めたって仕方ないんだよ。それに信者の中には、応用が利かない人もいるね。たとえ正しいことであっても、教祖が話していないことだったり、教祖の言い方と違う表現だったりすると、その正しさが分からず反発したりとか。そういう人との議論は難しいね」
若者 「でも、彼らの教祖は『法を説くは師にあり、法を広めるは弟子にあり』とか言って、伝道は信者の使命であり、義務であるとしているんですよ。それなのに非信者との対話を拒否するっておかしいでしょう」
老人 「信者全員が教え通りに行動できるわけではないだろうからね。自分の話をハイハイ聞いてくれる人とは話すけども、自分の話をすんなり受け入れてくれない人とは話さないとしても、まあ仕方ないだろう。これは人として理解できる心情だよ」
若者 「そういうものでしょうかね」
老人 「そう。それが人というものだよ」
若者 「そういえば、その教祖は『救える者から救ってゆく』とも言ってますね。信仰をすんなり受け入れる人を優先し、そうではない人は後回しにするというのは、教義的にも正しい判断なのかもしれませんね」
老人 「えっ? 教祖はそんなことを言っているのかい」
若者 「そうですよ」
老人 「うーん、それはちょっとおかしいな」
*無駄なことは一つもない
若者 「おかしいって、どこがおかしいんですか」
老人 「そうだね。順序だてて話すとすると、まず一般の人が、やっかいな人との議論に巻き込まれた時に、『話しても無駄』として議論を中止するのは当たり前のことだし、非難されることではないだろう」
若者 「そうですね」
老人 「信者であっても、人であることは変わらないし、上のように判断することは、別におかしいことではない」
若者 「はい。さっきまではそれには不平がありましたけど、あなたの話を聞いて納得できました」
老人 「でも教祖の場合は、宗教指導者であるのだろうから、一般人よりも、信者よりも、神のことが分かる人なんだろう。そういう人が『話しても無駄』という発想を持っているとしたら、これはおかしなことだ。なぜなら、神のなされることにはすべて意味があり、無駄なことは一つもないからだ」
若者 「なるほど」
老人 「でも、『救える者から救ってゆく』という言葉の背後には、無駄ははぶくという合理的判断が見え隠れしている。これは、テスト、仕事、医療などでは有効だろうけれども、すべてのことには意味があるという宗教的な思想からは決して出てくるはずのない発想だ」
若者 「……」
老人 「こう言っては何だが、もし本当にそんなことを言ったのだとすると、その教祖は神を信じていないかもしれない」
若者 「ええっと、さすがにそれは極論すぎませんか?」
老人 「いやいや、そんなことはない。もし神を信じているなら、すべてに意味があると受け止めるものだよ。だから本気で神を信じている教祖なら、自分が出会った相手がどんな人であれ、その人と出会ったことには何らかの意味があるのだから、真摯に向き合いなさいと説くだろう。やっかいな人は後回しにしていいというような、神によって導かれた出会いを軽視するような発言をするのはおかしい」
若者 「そう言われてみれば、確かにそうですね」
老人 「先に述べた通り、一般人や、末端信者が、無駄なことはやらないというのは、まあ仕方がないとして、教祖のような地位にある者が、世の中には無駄がある、神の為すことには何の意味もない無駄なことがあるというような発想をするのはおかしい」
若者 「なんだか、結局、その教祖は、ただの人なのかもしれませんね。本当には神のことは何にも知らない。信仰心もそれほど強いわけでもない」
老人 「どうやらそのようだね。ついでに言うと、この教祖は神を信じていないだけではなく、奇跡も信じていないね。奇跡は『救える者から救ってゆく』という合理的な判断のもとでは生じず、傍から見て無駄なことに見えることに本気で取り組むという不合理な判断の下でこそ生まれるということが分かってないらしい」
若者 「『不合理なれども我信ず』という姿勢があってこそ、奇跡は生まれるということですか」
老人 「まあそういうことだ。合理的判断によっては当然の結果が出るだけだが、不合理な判断によっては時に驚くべきことも起き得る」
若者 「いやはや、ほんのちょっとした言葉遣いから、神を自称する教祖の本性がここまで明らかになるとは驚きました」
老人 「いや、さすがにそこまで断定的には言えないよ。『救える者から救ってゆく』というのは、『救える時がきた者から救ってゆく』という意味である可能性があるからね。後者の意味でなら分からなくもないが、前者のように言い、人との出会いを軽視するニュアンスがあるなら、彼が本当に神を信じ、奇跡を信じ、それらを真に経験したことがあるかどうかについては大いに疑問ではあるということだ」
若者 「つまり、一部の言葉だけでなく、話の流れ全体を知るまでは断定はしないということですね」
老人 「まあそういうことだ」
若者 「今日もいろいろなお話が聞かせてもらってよかったです。ありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう」
〈了〉