「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、100パーセントの信仰なんて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、100パーセントの信仰なんて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。