先日、大型書店に立ち寄ったついでに、アンチHS界隈で話題になっていた『嘘をつくなかれ』をチラ見してみたら、知的正直についての説明で、試験でカンニングしてはいけないとか、問題集の回答をみてはいけないとか、基礎からきちんと勉強しようとか、そういう学校の勉強法のことばかり説明されていたので驚いた。
自分は、知的正直とは、自分の心に正直になり、分かるものは分かる、分からないものは分からないとすればよいのであり、分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふりをする必要はないということだと思っていた。たとえ世間的にはどんなに高く評価されており、名著とされているものであっても、その良さが分からなかったら分からないとし、世間的にはさして注目されていない雑書の類であっても自分は価値があると思うなら価値があるとするなど。
でも本書では知的正直について語りながらも、こういうことには触れられず、学校の勉強の話ばかり…。これには唖然としてしまい本書を読み続けることができず中途で閉じてしまったのであるが、はたして本書の後半では勉強法だけでなく、自分の気持ちを偽らないことについても説明されているのだろうか。どうだろう。いずれ再チャレして、どうなっているか確かめるつもりではあるが、大川隆法と自分とでは、渡部昇一の『知的生活の方法』という同じ本を読んでも、その理解にはこれだけ違いがあるというのは面白いことだなと思う。
◇◆ 追記 2020.7.8 ◆◇
本書の続きを読んでみた。著者は若い頃にはいわゆるお愛想をそのまま正直に受け取っていたこと、正直を大切にして宗教活動してきたこと、正語が大切なこと、結論を間違った宗教学者が地獄に堕ちていることなどが語られていた。
どうも著者が話題にしているのは、自分自身が正直であろうと決意すればそれで済むことばかりのようだ。世の中には、正直であればそれで良いというわけではない問題もあるのだが、それには触れず仕舞い。これは残念。「正直であれ」というテーマの話であれば、正直であることの効用を話して、正直であるがために人を傷つけてしまう場合などについては省略するのも止むを得ないが、それにしてもこの点についても少しくらいは触れてもいいのに、とは思う。
あと、著者は、結論を間違った宗教学者は地獄に堕ちているとしてバツ判定をしているが、これからすると著者の人物評価は、正直かどうかよりも、間違ったかどうかで決まるようだ。もっと言えば著者は、自分とは異なる思想信条を持つ者はみんな間違っているとして地獄に放り込み、その者が自分の考えを正直に述べたかどうかを気にしている様子は見えない。
自分は、思想信条が合わない人であっても、その人が正直者であるなら一目置くし、思想信条が同じでも不正直であるなら距離をおきたい方なので、この辺りの考え方は著者とはいまいち合わない。