ツイッターを見ていたら、HS信者のツイートが話題になっていて、それを掘ってみたら、楽山批判を書いている信者ブログに行き着いた。楽山を名指ししているわけではないので、「ちがう」といわれれば、「ああそうですか」と引っ込まざるを得ないのではあるが、文脈からすると、たぶん自分に対する批判なんだろうな。
 それにしても、先日、「時は金なり、命なり」を書いて、あちこちのブログを見てまわることを止めることを書いた途端に、信者ブログから批判記事らしきものをいくつも発表されるとは奇妙な偶然であるし、なんだかおかしくてたまらない。
 批判内容については、ざっと眺めただけではあるが、正直言って興味をひかれるものはなかった。ただ自分に都合の悪い批判は無視、スルーしているのはけしからんとかいう意見には、夏目漱石の文章を思い出させられた。
2020-07-26 (1)田山花袋君に答う
 自分は漱石ほど多忙ではないし、才能もないのではあるが、批判に対する姿勢については見習いたいと思う。失敬。
 ぶっちゃけていえば、「霊言は真実であり、大川隆法総裁は地球神であり、主エルカンターレである。この大川隆法総裁こそが、イエスが父と呼んだ存在である」というHS信者が、「信仰とはこういうものだ。人はこのように生きるべきだ。キリスト教徒に失礼があってはならん」などと説教したとしても、HS信者以外には真面目に耳を傾ける人はいないだろうし、しつこいネットストーカーとの議論に応じる人もいないだろう。自分もこの例外ではないということである。





◇◆ 追記1 2020.7.26 ◆◇


*スルーの理由
 記事を読み返してみて、ちと不親切と感じたので、スルーの理由について以下に補足説明してみた。

・時間…リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できるだろうが、ネット上の議論であれば、何日も、何週間も続くことがある。人によってはこちらが何も書かなくなっても何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける者もいる。これには付き合いきれない。

・真理…世の中には、真理を多角的に理解できる人もいれば、理解できない人もいる。たとえば、ueyonabaruさんはこのようなコメントをしていた。
 これはつまり、HS教義とは違う考え方であっても、アンチが言ったことであっても、真理は真理だと認識できていることを示している。またその考えが何の影響を受けているのかも分かっている。こういう人とであれば信者とアンチという立場を超えた議論は不可能ではないだろう。
 でもHS教義に合致していないものは真理ではない、アンチがいうのは真理ではない、アンチで退転者の楽山が言うことに真理はないという風に、党派的、護教的な決めつけばかりで、真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論ができるはずもなかろう。

・ケチ…真理を求めての議論なら意味もあるだろうが、無暗な人格批判だとか、否定のための否定だとか、ただ相手にケチをつけたいがための難癖などにはいちいち付き合う気にはなれない。

・テーマ…事実関係についての議論であれば、思想、主義、信仰、感性などが異なっていても可能だろう。でも、「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という答えのない問題については、思想、主義、信仰、感性が異なる相手と議論しても平行線に終わるだけであまり意味はない。とくに当事者間に悪感情がある場合は、ただの喧嘩になるだけだ。

・公平…人は身内に甘く、敵対者には厳しくなりがちなものだ。だから少々のタブスタはやむを得ないことではある。ただそれには程度があるのであって、他人のコピペブログを強くしつこく批判していながら、お友達のコピペブログは殆ど不問に付すとか、自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわりしておきながら、多数からネットストーカー扱いされている問題児が、自分の論敵に喰いついてるのをみて、正当な批判が行われているかのようにいうのは、ダブスタにもほどがある。こういうダブスタ人間とは、意義ある議論は期待できなかろうと思う。

・地雷…巷には、プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人がいる。こういう人と議論すれば、易怒性を誘発し、面倒なことになるのは目に見えている。触らぬ神に祟りなし。以前はこういう人の存在は知らなかったが、いまはこの手の人物が存在することはわかったし、批判があったからといって、相手がどういう人物か確かめぬうちに、すぐに議論に応じるような迂闊な真似をする気にはなれない。

・関心…人は自分に対する批判には敏感なものだ。だから批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある。でもあんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう。楽山日記には愛読者ならぬ、嫌読者もいるようだけども、自分は嫌読者が何を書いているかいちいち見に行くほどの興味関心はない。

・わけあり…通常の感性を持っていれば、大川隆法は神だとか、霊言は真実だとか信じることはできないだろう。いまだに信者を続けているということは、それ相応の理由があるのだろう。たとえば、「持病があって苦しんでいたが、信者になってから体調がよくなった。信仰に疑問はあるけれども、退会したら体調が悪くなるかもしれないし、止めることはできない」「夫婦で信者になったが、つれ合いは熱心信者のまま亡くなった。自分は疑問を持っているが、さきに亡くなったつれ合いのことを考えると棄教できない」「二世信者で生まれた時からずっと信じて来たので、おかしいとは思いつつも、すべては嘘だったとはどうしても受け入れ難い」など。自分はこういう人たちと議論し、退会を説得したいとは思わない。

・弱味…ブログ村騒動のときの信者らを見ていたら、アンチによる大川隆法批判はほぼスルーしていたのに、自分が批判対象にされたときには、わあわあ騒いでいた。自分はこれはみっともないことだと思ったので、不当に貶められている他者を庇うことはしても、自分に対する批判はスルーを基本にした。そういうわけで、ずっと前は自分の意見が誤解、誤読されていると思えば、「それはちがう」とすぐに喰いついたりもしたけれども、今は誤解、誤読による批判があったとしても放置することが多くなった。

 大体、スルーの理由についてはこんな感じだ。
 これに対しても、文句を言う人もいるだろうけれども、こちらは上にある漱石の田山花袋に対する対応を見習って、いちいち批判者のブログに出張したり、反論したりするつもりはない。侮辱するつもりはないけれども、一部例外を除いて大概の信者さんの話は総裁の受け売りばかりなので、さほどの興味は持てないのだ。
 でもどうしても批判を読め、議論に応じろというのであれば、当ブログのコメ欄にでも書いてくれればよい。その場合は一応全部読むくらいのことはするつもりではある。以上。





◇◆ 追記2 2020.7.26 ◆◇


*付け足し
 いくつか思いついたことがあるので書き足しておく。

・感想…自分の書いていることは、基本的には個人的な感想である。「この本を読んで、こんな感想を持ちました」「この考え方には、こんな感想を持ちました」「自分にはこれはしっくりこないけど、こちらの方はしっくり馴染めました」という具合だ。これに対して、「楽山の感想はまちがっている。正しい感想はこのようなものだ。楽山は改心して正しい感想を持つようにせよ」というような批判をされても返答に困る。感想に正しいも、正しくないもないのだから…。

・懐疑…自分の基本的な立ち位置は、人間の認識には限界があるというものだ。だから自分は自分の判断に疑問を持っている。「神はこういうものだ!」「これが神だ!」ではなく、「自分には神はこのようなものに思われるのだが…」「自分にはこれが神であるように思われるのだが…」という具合になる。これに対して、「楽山は神を疑っている!」と非難されても困る。自分が疑っているのは神というよりは、自分の認識力なのだから…。

・傲慢…自分は正しく神を認識し、正しい信仰を持っていると称する信者が、自分には正しく神を認識し、正しい信仰に至る能力はないのじゃないかと疑いつつも、自分なりの努力を続けようとする楽山のことを傲慢であると糾弾するのだからおかしなものだ。これではもういちいち反論する気にもなれない。

・説法…大川隆法は、信仰とはこのようなものであり、人はこのように生きるべきだというように説法する。信者はこれをうけて、他人に対して、信仰とはこのようなものであり、人はこのように生きるべきだと主張する。これに対して自分は、「私はこのように感じました」「私はこのように生きたいと思う」という個人的な感慨を述べるのが基本であって、他人に対して、ああしろ、こうしろと指図したいとは思わない。
 でもどういうわけか、某氏は、楽山は自分は真理を正しく認識したとしてブログ上で説法していると考えているらしい。自分としては「いいや、自分は何が正しいかを知っているという立場から、真の信仰はこうだとか、正しい神認識はこうだとか説法しているのは、私ではなく、あなた自身でしょう」と言わざるを得ない。

 率直にいって、上のような自分の立ち位置は当ブログを見ればすぐに分かることだ。にもかかわらず、ああだこうだ的外れなことを言ってくるのであれば、こちらとしては申し訳ないけれども、まじめに相手をする気にはなれず、スルーすることにならざるを得ない。あしからず。
 それにしても、こんなことを書けば、火に油を注ぐことにしかならず、ますます恨まれ、粘着されることになるのは分かりきったことであるのにそれを決行してしまうとは、自分は底なしのバカだね。とほほ。





◇◆ 追記3 2020.7.27 ◆◇


*的外れ
 思い出したことがあるので、さらに追記しとく。
 HS信者との議論において、よくあったのが下のパターンだった。

・テーマ…真理というものは、いわば無限である。しかし紙幅は有限である。だから真理を語ろうとするときは、その一面について語ることになる。
 たとえば、真理には、A、B、C、D…というものがあったとして、その全部を書くわけにはゆかず、そのうちの一つであるAをテーマにして書くということになる。
 これに対して、「Bが真理だ」「いいや、Cが真理だ」と熱弁されても困る。

・限定…一口に真理といっても、人生における真理というものは、いつでも、どこでも、誰にでも当てはまるとはいかないものだ。だから仮にAという真理があったとしても、これこれこういう場合にはA1、それとは異なるこういう場合にはA2、さらにはA3というように変化、微調整されえるものだ。
 だからAをテーマにした記事は、実際にはA1の場合に限定して書くことになったりする。
 これに対して、当該記事で想定している場面とは別の場面を想定して、「A2が真理だ」「A3こそが真理だ」としたところで仕方がない。

 自分は大体このような考えなので、「Aが真理だ」としたときに、「Bも真理だ」「Cも真理でしょう」「A2というのもあるよ」という意見があったとしても別に構わない。「自分の意見を補完してくれてありがとう」といった具合である。とあるHS信者は、「多様性顕示欲」なることを言ったそうだが、おそらくは、こういう形の批判はその一種だろうし、言い方さえ礼儀にかなっていれば特に咎めることでもないだろう。
 でも、「Aは真理でない。Bだけが真理だ」「いいやCこそが正しい」「おかしなことをいうな。A3であるべきだ」などと言われた場合は、正直言って、いちいち相手するのは面倒くさくてたまらない。以前であれば、相手が納得してくれるまで説明を試みたりもしたけれども、今はもうそんなことをする根気はなく、スルー対応ということになる。
 こういう風に、的外れなことで、語気荒く噛みついてくるということは、その根底には相当な悪感情があるのだろうし、こちらがどんなに丁寧にその勘違いを指摘したところで、その言葉が正しければ正しいほどに逆恨みされ、粘着されるだろうことは想像に難くない。放置して、本人の自覚を待つより仕方がない。
 これは何だか冷たいようだけども、自分は正しいと確信した上で、正義の怒りを爆発させていたり、相手のすべてを否定しなければ気が済まないというくらいに憎悪をたぎらせている人に対しては、可能な限り距離をおくという対応をとるしかない。人によってはそういう相手とは徹底的に戦うべきだという意見もあるだろうけれども、放置していては多大な損害を被るというのでもなければ、そこまでの必要もないだろう。