*きっかけ
 自分がキリスト教に興味を持ったきっかけは何だったかと考えると、多分それは三浦綾子の本を読んだことだった。小学校のときに校門前でキリスト教の紙芝居を見たり、高校生のときに福音書を読んで感動したこともあったが、本当に興味を持ったのは三浦綾子がきっかけだった。そしてこれがHSから離れることにつながったのだった。
 HSでは、大川隆法の説く教えは、どの宗教よりも高く、奥が深いとされていた。HSこそ最高、最大、最強であって、HSの出現によって、他の伝統宗教の役割は終えた、HSによってすべての宗教は統合されるといった具合である。恥ずかしながら、HS信者だった自分はこれをそのまんま信じていたのだった。
 でも三浦綾子の本を読むと、その真摯な生き様に感動させられずにはいられないし、キリスト教関連の本を読んでゆくと、その奥深さに気づかないではいられないのだった。そしてこれに反比例する形で、HSの信仰論など、その教えの浅薄さが目につくようになって行ったのだった。
 こういう風にあからさまに宗教を比較し、優劣を論ずることは褒められたことではないだろうけれども、自分はキリスト教関連の本を読んでゆくうちに、HSは最高、最大、最強であると信じ込むというマインド・コントロールが解けたのは事実であるのだから仕方がない。少なくとも自分がHSの信仰論のおかしさに気づけたのは、キリスト教のおかげであった。これは有り難いことである。


*印象操作
 ところで、HSブログ界隈についてご存じない方のために、一つ警鐘を鳴らしておくと、HS信者のブログには、三浦綾子、アウグスチヌスなどの言葉を頻繁に引用、紹介しているところがある。これはある意味、HS信者でさえも、大川隆法の教えよりも、キリスト教の教えが優れていることを認めているということなのだろう。
 大川隆法の教えが圧倒的に優れているならば、わざわざキリスト者の言葉を持ち出す必要もないはずだ。でも実際にはキリスト者の言葉を引用してばかりいる。これはつまり前者の言葉は、必ずしも後者の言葉を圧倒するほど優れたものではないということなのだろう。ブログ主はこのようなことは全然考えていないようだけども、この点は傍から見ていて少々おかしくはある。
 ただこのブログ主の引用の仕方には、笑いごとではすまされないところがある。それは恣意的な引用が見受けられるということだ。たとえばキリスト者の言葉のうち、HSに都合の良いところばかり引用し、さもキリスト者がHSの正しさに太鼓判を押し、支持しているかのように印象操作しているのだ。
 HSの霊言本では、古今東西の偉人賢人の霊が登場し、大川隆法を讃美、賞賛しているが、このブログではアウグスチヌスや三浦綾子などのキリスト者の言葉のうち、大川隆法の教えと重なる部分を抽出し、さも彼らが大川隆法と同じ考えを持っているかのように紹介されているのだ。
 ちなみに、スピリチュアリズムの古典についても、同じような仕掛けになっている。スピリチュアリズムの古典のうち、大川隆法の教えと共通する部分が引用され、さも両者は共通の真理を説いているかのようにされている。これはまったくひどい話だ。
 HSの教えの根本には、信者は、大川隆法を神と信じ、崇拝せよという思想がある。一方、スピリチュアリズムの基本は、内なる神を信じることであって、誰かを崇拝することではないだろう。キリスト教でも、新興宗教の教祖を神として崇拝せよという教えはないだろう。むしろ偽預言者に気をつけよとして、そのようなことを厳しく戒めているだろう。
 当該ブログ主は、こういう根本的な相違点は無視して、大川隆法の権威付けのために、キリスト教やスピリチュアリズムの教えを利用しているのだ。当人は自分は正しいことをしているつもりなのだろうが、迷惑な話だ。
 キリスト教やスピリチュアリズムの書籍をたくさん読んでいる人であれば、この辺りのことはピンとくるだろうけれども、そうでないHS信者は、当該ブログを読んで、スピリチュアリズムも、三浦綾子も、アウグスティヌスもみんな大川隆法と同じことを説いている、やはり大川隆法の教えは永遠不変の真理だと思い込んでしまう可能性が大きいし、これは本当に困ったことだ。


*棚の上?
 と、ここまで書いて気がついたのだが、自分の場合は、いろいろな書物の中から大川隆法の教えとは異なる教えを引用、紹介することが多いのだった。古典名著の中から、大川隆法の教えとは正反対のものを引っ張り出して、紹介し、それによって大川隆法の教えを相対化すると…。
 これを考えると、自分も人のことを言えたもんじゃないかな。でも自分は、こういう意図については前々から正直に話しているのだから、だんまりを決め込んでいる上の信者ブログよりはましだろう。
 なんだか最後にオチがついた形になってしまったが、とりあえずここで筆をおくことにしたい。失礼。