第七講を読んだので内容をメモ。
- 第9章の研究。
- ヨブは「真の神を嘲ったのではない、友人の称する所の神を嘲ったのである」「彼らの信ずる如き神を彼は信じ得ないというのである」。
- 「ヨブ記の中枢はいうまでもなくヨブ自身の言である」。
- 「懐疑は決して信仰を否定するものではない。大なる懐疑のある所ならずしては大なる信仰の光は現れない」。
- 20-21節の言葉と、コリント前4.4の言葉は「精神を一にする」。
- 33節で、ヨブは人と神の間の仲保者を求めている。19章25節でも同様。
- 仲保者について新約では、テモテ前2の5、ヨハネ一の2の1、へブル12の24。
- 9章2節には「人いかでか神の前に義しかるべけん」とある。義人無し、一人だに無しということ(詩篇14.3、ロマ3.10)。これは「新約の中心問題」。
- 「人は罪に生れ罪に育ち罪に歩みて、いかに奮闘努力するも神の前に己を義しくすることは出来ない」。ではどうしたら義となることができるか。救われ得るか。「この難問題は実にヨブ記の九章二節にその源を発したのである」。
- 「すべてキリスト教の大真理はヨブ記の中に発芽している」。
ここではヨブ記と新約聖書の関連を多く指摘している。新約聖書を理解するには旧約聖書の知識が必要だといわれる理由がよく分かる。
ヨブが神を嘲るかのような発言をしたのは、あくまでも友人の語る神に対してであって、真の神に対してではないというのは、ぜひとも覚えておきたい。巷では、神についての議論の際に、相手の語る神について意見をすると、「神を冒涜した」「不信仰だ」と怒られることがある。相手の語る神について意見を述べただけで、真の神についてあれこれ言ったわけではないのに、そういう結果になってしまったりする。そんな風に怒る人は、「私は真の神を知り、語っている。これに受け入れないのは、真の神を受け入れないことだ」と思い込んでしまっているのだろう。自分はそうならないように注意したい。