真理に対する態度としては、全身全霊で信じるべきときもあれば、疑問を大切にして、探究し続けるべきときもある。そういう意味で、次の言葉は納得できる。
霊界からのメッセージ@CaIrx4KSwAxAIYO古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。 https://t.co/Uof1aKH9Y4
2020/07/29 18:00:50
宗教に凝りすぎると、信じることを尊ぶあまりに、疑問を持つこと、考え続けること、調査、実験を繰り返すことなどを軽侮し、否定することさえある。実をいえば、過去には自分もそんな風になってしまったことがあった。でも今にして思うと、これは信に偏りすぎており、あきらかに中道から外れていた。反省。
一見したところでは、信と疑は、正反対であり、二者択一を迫られているようでもあるが、実際はどちらか一方を選ばねばならぬというものではなく、どちらも大切であり、この二つを両輪としてこそ、人は真っ直ぐ進むことが可能になるのだ。
もしどちらか一方の輪を止め、もう一方の輪ばかり回すなら、同じところをぐるぐるまわるばかりで前には進めなくなるし、やがてはコントロールを失い、穴に落ち込んでしまうのがオチだ。信と疑は、どちらか一方を選べばそれでよいというのでなく、要はバランスが大事だ。
話は少し変わるが、自分は、古いものは良いものだとは必ずしも言えないと思うので、古くからの教えだからといって、それを絶対化しようとは思わない。かといって合理主義者でもないので、不合理なものはすべて改廃すべきだとも思わない。経験と理性についても、信と疑と同様に、どちらか一方だけで判断するのでなく、バランスが大事なのだと思う。